「茂原モータースポーツランド」が「茂原ツインサーキット」としてリニューアルオープンしたのは昨年6月。
ダートコースをつぶして4輪も走れるミニサーキット場を新設し関東一円を中心に数多くのファンを集めているが、「カートコースの名門」として以前から知る人ぞ知る存在だった。
そんな茂原ツインサーキットをホームコースとして、レーシングカートの世界で活躍する少年がいる。
花岡翔太君、中学2年生。昨年の成績だけでも、並みいる大人を押しのけて茂原チャレンジカップSオープンクラスシリーズチャンピオン、NTCカップYO83クラスシリーズチャンピオン、新東京サーキットFKレースYO83クラス優勝etc。
地上スレスレの車高と剥き出しの車体で、レーシングカートの体感スピードは実際の2・5倍。
フォーミュラーカーとの一番の違いはサスペンションが無いことで、それだけに技術がなければコーナーを曲がれず、運転にごまかしがきかない。「アスファルトの模様も見える」状況での体感250キロのスピード。でも翔太君いわく「怖かったらレースなんか出られません」。
フォーミュラーカーのライセンスが取得できるのは18歳から(ただし、今年からレーシングカートの実績次第で16歳から可能になった)。
もちろん、翔太君はカートにとどまるつもりはない。
F3へ、F3000へ、そしてモータースポーツの頂点・F1へ。
夢はF1レーサー…と思いきや、その瞳は確実にチャンピオンフラッグを狙っている。
翔太君がこの世界に入ったのは、「子どもの頃からF1が好きでレーサーになりたかった」というお父さん、寛さんの影響。
「アイルトン・セナは4歳でカートを始めた。だからウチは3歳で、と思ったんです。ところが、当時、小さな子どもが乗るカートも走れるサーキットもない。本当に日本はモータースポーツ後進国。自動車先進国でF1のワールドチャンピオンを出したことがないのは日本だけ。町内の野球大会にお金を出してもモータースポーツの大会に予算をとるなんてありえませんしね」。
ということで、まずポケバイ。翔太君5歳のことだ。で、翌年には千葉北杯Fクラス優勝、桶川カップFクラスシリーズチャンピオン。これは最年少記録であり、その後も7歳でA級ライセンス取得、8歳で特Aライセンス取得と最年少記録を塗り替えた。
こうして10歳、小学4年生の時にやはり史上最年少で全日本チャンピオンとなる。
お母さんの富子さんは言う。「ポケバイはカートにつながる通過点のような感じだったし、今の翔太のライバルは幼稚園の頃からカートを始めた人たち。でも、ひとつのことを始めた以上はそれをキチンと成し遂げなくてはいけませんからね。丸5年で全日本チャンピオンとなったことで、ひとつの目標をクリアしたと次のステップに進んだわけです」
そして98年1月、10歳でカートに転向した翔太君。
早速翌月、デビュー戦となる茂原チャレンジカップに出場し、優勝を飾った。
とはいえ、とにかく費用がかかる。全日本選手権に参戦するだけで、シャーシ、エンジン、タイヤ、エントリーフィー、遠征費など諸々を合わせると、年間(6〜7戦)で500万円にのぼる。
自営業を営む寛さんが休みの合間に子どもたちにカートを教えることで専門ショップからエンジンや古タイヤを提供してもらったり、富子さんがパートに出たりと、家族一丸となって夢の実現に向かう。
金銭的な手助けができない翔太君は、陸上部の練習に励む。
「100分の1秒迷っていたら決して前を抜けない」というレーシングカートは、経験に加え動体視力と反射神経、集中力を要するスポーツだから、その体力づくりのためである。いい成績を残せばスポンサーがつく。実際、先日の鈴鹿のレースでベルギーのオイルメーカー『カストロール』がスポンサーとして名乗りを上げた。
「母親から見ると、実に子どもらしい子ども。自分の好きなことができると感謝しているようですね。でも、カートに乗っている時の顔は違う。真剣そのもので普段は見られない顔。無の境地ですね。カートは精神的な成長にも役立っていると思います」。
一方の寛さんは、息子のレースの緊迫感が好きだ。
「日本のジュニアのレベルは高い。子どもの時に始めることで、本人は気づかなくとも自然に身に付いた駆け引きというものが見られるんです」。
27位を走っていた翔太君のカートが次々と前を抜き、3位で入った鈴鹿のレースでは、周囲の観客の感動する様が手にとるように感じられたという。「やっぱりモータースポーツは、人々に感動を与えるスポーツ」だと寛さん。
「見せ場をつくって勝った時の喜び。それが好き」という未来のF1ドライバーは、こう言う。「ナンバー1しかない。2位はビリと同じ」。
厳しい勝負の世界を垣間見た。 (富川)