「悲しく残念だけど、偏見や差別を治す薬はまだない…」。
長生村に住む作家・中村豊秀さんは、自らの著書のなかで登場人物にこう言わせている。ハンセン病患者との40年近くにおよぶ深いつながりから生まれたその著書が、『小島に祈る』である。
今年5月、熊本地裁で「ハンセン病国家賠償訴訟」の判決があり原告側全面勝利。小泉首相が控訴を断念し、マスコミ等が「英断」として大々的にとりあげたことは記憶に新しい。
しかし今も偏見や差別は高齢者を中心に根強く残っている。例えば、四国の自治体の1つが療養所の自治会に対し、新しくできた公設銭湯の利用を特定の日に限るよう申し入れ問題化するなどだ。
「ハンセン病の歴史は偏見と差別の歴史。病状があまりに残酷だから」と中村さんは言う。随所に現れる斑紋、豆粒でも埋めたような結節、感覚麻痺や四肢の神経痛。神経麻痺は瞼や唇を垂れ下がらせるだけでなく、こたつの中で足が燃えているのも気づかないといった事態をも招く。
「ハンセン病は伝染するという間違った見方が差別を生み、それが因習化し、患者には近づくな、となる。しかし、ハンセン病がうつるなら、患者たちと何度も食事をともにし、家に泊めることもある私など、とっくに感染してますよ」。
中村さんは怒りを隠さない。
そもそも、ノルウェーの医師ハンセンによって「らい菌」が発見されたのは1873年。
日本で初めてハンセン病対策法をつくったのは1907年であり、その後幾度かの法改正があったものの「強制隔離」という基本政策は変わらず、96年に法が廃止されるまでおよそ90年にわたり患者・元患者たちには「牢獄に近い苦しみ」が与えられた。
子孫を残さないための断種手術、中絶手術。夫婦になっても、7〜8人が生活する「花嫁」の部屋に夫が夜になると通うなどという人間の尊厳さえ無視された生活が、実に50年前まで強いられたという。
小説のなかで、療養所を逃走した入所者が、「逃走する気になったのは広い牧場で脱柵した牛を見たこと」と振り返るシーンがある。牛を捕らえたひとりがつぶやいた台詞はこうだ。
「こんなに広い牧場なのに、やっぱり生き物は、柵で囲まれているのいやなんですよ。逃げたときの牛の目、何ともいえないうれしそうな目つきだったですよ」
中村さんは東京・麻布出身。50年間の作家生活で処女作『風流交番日記』(映画化)をはじめ77冊の著作を世に送り出している。30代の頃、国家表彰を受けた職員のインタビュー取材のため、ある国立療養所に訪れたことがハンセン病との“出会い”。
「入所者の非人間的な扱いに驚き、こんな社会があってはならない!と痛感しましてね」。その後、幾度も療養所に足を運び、入所者と語り合い、資料を集め、電話取材を続けた。だが、「取材をすればするほど、資料を読めば読むほど書けなかった。知れば知るほど、“事実の重たさ”に負けてしまうから。それだけ深く、残酷なんです」
そんな中村さんが漸くペンを手にとる気になったのは、喜寿を過ぎ少々開き直ったからだという。
「書きながら、何度も泣きました。小説中の事件や細かな出来事はすべて実話。ただ、ストーリーはフィクションです。希望のない結末にはしたくなかった」
そして、昨年『小島に祈る』を執筆。自分の力をテストしてみたいと応募した第26回「部落解放文学賞」で入選を果たした。
今年8月には同作品に、『男と女と』『見えない症状』の2作品を加え、小説集を初めて自費出版。ハンセン病が大きな関心を集めた直後だけに出版社からの申し出もあるものの、「この作品は商業ベースに乗せたくない。毒されたくないからね。意地を張りました」と中村さん。
100部限定で制作費130万円。本当に喜んでくれる人たちに無料で配った。
「まだまだ書き足らないこともありますが、元患者さんが『よく調べましたね』と…。今後は原稿用紙500〜600枚位でハンセン病患者の一生を描いたものを書きたい」
存在理由のない法律と言われながら廃止に年月を要した「らい予防法」。
検証が一歩進み、賠償責任が認められたからといっても、元患者たちが奪われた自由や家族、人生は戻らない。昨年5月現在の全国療養所の入所者4595人、平均年齢74歳。
同世代である中村さんのペンは、日本という国が犯した過ちを語り継いでいく。(富川)