「打ち手としてプロになりたい」。今春、高校に進学をせず太鼓打ちへの道を選んだ濤川 志桜里さん(市内古市場在住)。憧れのステージを目指し、日本で唯一、飛び跳ねながらの打法を持つ、『ジャパニーズ・マジック・ドラム』といわれる『銚子はね太鼓保存会』で演奏している。
彼女は根っからの太鼓好き。祖父の故・要司さん、父・孝志さんも故郷・飯岡町では有名な太鼓打ち。彼女は物心もつかないうちから、東京や千葉の祭りへと二人に連れられ見物に行った。太鼓が鳴れば、いつまでも聴いていたくて帰ろうとする父親に駄々をこねていたという。
彼女の最初の記憶にあるのは、平成元年に行われた飯岡町・玉崎神社の大祭。60年に1度、野栄町の野手浜へ3日間かけて神様を連れていく祭りで、山車では祖父と父が太鼓を打っていた。「その時の曲調を覚えています。聴くとすごく懐かしい気持ちになるんです」と志桜里さん。彼女は、激しく轟く海の祭り太鼓に惹かれている。「街なかの太鼓はおとなしい。胸がわくわく騒ぐほどのものは感じないんです」。
気づけば体を叩いて拍子をとっていた幼い頃。父親に手ほどきを受けながら、太鼓をきちんと叩けるように成長するまではと、太鼓チームへの参加を我慢した。小学3年生でようやく地元の創作太鼓チームに入り、小学5年生の春に、成田で毎年行われている『関東一の太鼓祭』を見た。「凄かった。太鼓の音が生きていた。プロの音に圧倒されて、私もあんな打ち手になりたい!と思った」。
その年に所属チームをやめ、他の太鼓チームを探し、中学1年で千葉のチームに入った。しかし、ここでも何か足りず、1年半で退団。中学3年になった昨年の春、木更津・かずさアカデミアパークで開催された太鼓フェスティバルを聞きに行った。彼女の望む激しい海の太鼓『銚子はね太鼓』のステージがあった。
父・孝志さんは、はね太鼓の横笛の素晴らしさに驚いた。「鼓や笛も知らないと、祭り太鼓の打ち手としては片手落ち。やるからにはいい師匠が必要だ」。休憩時、客席に戻ったメンバーに、娘を練習に参加させて欲しいとかけあった。
志桜里さんは、火曜と木曜、学校を早退して県立銚子水産高校まで通うことになった。最初の練習で愕然とした。彼女が今まで打ってきた太鼓は、すべて長いばち。はね太鼓は男性が握ると約半分隠れてしまう短いばちだった。「桐でできたばちは非常に太く、軽くて短い。それを親指・人さし指、中指だけで持って、体全体を揺さぶるような力強い音を出します。こんな太鼓の打ち方があるんだ!と思いました」。週2回、片道2時間かけて通う彼女は、保存会会長・宮崎さんの自宅で、練習前に夕飯を食べさせてもらってきた。「彼女は頑張り屋。私たちも負けずに練習しているよ」と宮崎さんも彼女のプロへの道を応援する。ただ、男たちが打つメインの『はね太鼓』は、危険がともなうため、彼女に許可していない。「大太鼓を打ち手二人が担ぎ上げ、首とあばらで支えて、はね回りながら打ちまくる。打ち手二人の呼吸が合わないと、ひっくり返って救急車、ということもあるんだ。私も片足のアキレス腱を痛めた」。
習いはじめから、一日中はね太鼓のリズムで頭の中がいっぱいだった彼女は、わずか1年で保存会の立派な打ち手になった。地に置いた大太鼓を打つか、はね太鼓演奏でサブの小さい『つけ太鼓』を担当する。彼女はばちを持つと顔が変わる。幼さが消えた厳しい表情。ところが、二つ、三つ打つと笑顔になる。弾けるような掛け声をあげ、リズムに乗ったばちさばきを見せる。冷え切った冬の体育館で、彼女は2曲終えてTシャツになった。
志桜里さんは、この4月から和裁を習い始める予定だ。家でできる仕事を持つためと、将来オリジナルの半被をデザインしたいから。様々な太鼓の流派も勉強し、作曲もやりたいと思っている。茨城県には彼女と同じく打ち手のプロを目指す友人もいる。三味線が弾けるこの友人とユニットを組んで、いつか二人でライヴもやりたいと話す。平日はアルバイトをし、銚子へ練習に行き、土日はほぼ、はね太鼓のステージ。結婚式の披露宴、関東近県のイベントや祭り、時には大阪や広島などへも招待されることがある。依頼が重なることも多く、メンバーをふたつに分けたり、1日に東京・横浜と2ステージ出演することもある。「太鼓を叩いているときが一番幸せ。何もいらないの」。ただ、太鼓の練習で肩や腕に筋肉がつき、「着たいと思った服のサイズが合わなくなっちゃった。ちょっと悲しいかな」。4月14・15日、自分の道を決めることになった成田の『関東一の太鼓祭』に、打ち手として参加する。 (米)