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「和太鼓を世界中の
  様々な楽器と出会わせたい」

「ゆめみいし」主宰 和太鼓演奏家 
  大多和 正樹さん(白子町)

 茂原市に生まれ、現在は白子町の自宅を拠点に和太鼓演奏で全国各地を回っている男性がいる。大多和正樹さん、29歳。
 茂原市のオーケストラに在籍しクラリネットを担当する父、音大出のピアノ教師の母、関西の和太鼓プロチームに所属する弟がいる。
 保育園に上がる前から母にピアノを習い、小学校から町の道場で剣道を始め、中学・高校と部活動で稽古に励んだ。
 大学では音楽を専攻し、軽音楽サークルでドラムを担当。
「バンドでは当初キーボードをやっていたんですよ。ところが、たまたま練習中に興味半分でドラムスティックを持たせてもらったら、もうドラムの虜になっちゃった。シンセサイザーを売り、1ヵ月後にはドラムセットを買ってしまったほど。ドラムセットは、右利きなら右足にバスドラがあってハットとスネアがあってと、合理的な配置までも考えられた西洋の楽器。そして、一人で広い音域を操れるのが魅力だった」。
 ドラムに夢中になる日々。ドラムの可能性を見極めたくて、日本の打楽器についても知りたいと思うようになった。
「腰は重い方ですが、考え抜いて決めたら動くのは早いんですよ」と話す大多和さん。幸い、地元に創作アマチュアグループ『房州太鼓』があったので、さっそく入会し練習に打ち込んだ。25歳の時だった。
 そして、いつしか壮大でありながら繊細な響きをもつ和太鼓にのめり込んでいった。
 集団として和太鼓の技術を高めると共に、個として様々なひとと出会うことで、和太鼓のもつ未知の世界の広がりを試したいと、他の楽器やダンスとのセッションも行った。
「未知なるものと交わることで生まれる音楽に強く惹かれ、ドラムセットより和太鼓をやる自分に、もっとたくさんの可能性を感じるのです」。
 和太鼓も津軽三味線も、ひとつの音楽ジャンルとして演奏されポピュラーな存在になったのは、ここ10年ほどのこと。大多和さんは、まだまだ演奏形態も変化し続けるのではないかと考える。
「昔からあった楽器が他の楽器と同じ音楽を演奏することで、また違った面、顔をみせる。新しい世界が引き出される可能性を秘めているのです」
 もっと、いろいろなひとと様々なシーンで音楽をやっていきたいと、2000年春に房州太鼓から独立。これまで以上に精力的に演奏活動に励む。
 ワンボックスカーに約150キロの大太鼓と組太鼓を積んで各地の音楽集団を訪ね、演奏を重ねる。
 だから、行ったライブのほとんどがソロよりセッションの方が多い。
 今まで、共演した楽器は、ピアノやギター、笛に津軽三味線。ジンベやコンガなど民族打楽器はほとんど。更にDJやボーカリストとも。 
 98年に県の文化使節団として姉妹州のウィスコンシン州政150周年記念祭に参加し、和太鼓チームの中心プレイヤーとしてステージを飾った。同じ年に行われた千葉県太鼓連盟ボストン公演では、ジャズの殿堂バークリー音楽大学教授でもあるジャズピアニスト竹中真さんに才能を認められ、来日した同氏とのセッションを実現。 
 99年夏、、『富士山太鼓祭り』での大太鼓一人打ちコンテストでは最優秀賞を受賞。地元の和太鼓チームのリーダーと共に、ギターを弾き歌うゲストの宇崎竜童さんと共演した。
 同年12月には、三宅裕司さん主宰の『劇団スーパーエキセントリックシアター』公演『房州挽歌』への作曲と演奏指導を行った。
 今年、「あらゆる音と自分の持っている音とを、同じ器の中にバーンと入れてかき混ぜてみたら、どんなものができるだろうか。その器となるステージを多くのひと達と創り上げていきたいという思いから」夢と願いをこめて『ゆめみいし』プロジェクトを立ち上げた。
 来年は、学生時代から熱烈なファンだったN・Yのジャズピアニストとセッションをしたい!と計画中。
「30歳になる5月を目安に渡米を予定しています。自分が本当に音楽が好きなんだ、と思いしらされたのはアメリカのジャズやフュージョンを聴いて。中でもミッシェル・カミロというジャズピアニストのCDを聴いた時に体を突き抜けた電流みたいな感覚は、今も変わらない。和太鼓で彼と演奏したいのです」。
 ご自分のライブ演奏について「元気がないと叩けないものだから、ステージからエネルギーを発散しています。演奏を聴きにきて下さった方の辛いこと、いやなこと、みんな吹き飛ばしてあげられたら!」
 幕張メッセでの県の文化祭参加とライブハウス出演、学校公演を目前に控え多忙な大多和さん。
 きりりとした立ち居振る舞いと、すがすがしい笑顔に、向き合う者までも清らかな気持ちにさせられた。 (内田)

連絡先 オフィス・TAWA
  TEL0475-33-6045

 

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