現在市原市に住民登録をしている外国人は約3700人。毎年その数は増えている。日本人の夫と結婚し、言葉や文化の違う市原で暮らして11年になる高橋アナマリアさんを能満の自宅に訪ねた。
夫の光春さんと知り合ったのは、アナマリアさんの母国フィリピン。学生時代、観光ガイドをしていた友人に頼まれ、たまたま案内したのがきっかけだった。「父は早くに亡くなり母ひとりだったこともあって、最初は反対されました。戦争体験から反日感情もあったようです。でも主人の誠実な態度に結婚を許してくれました」とアナマリアさん。
来日した当時は箸の使い方も分からない状態だったが、近くに住んでいた光春さんの叔父、叔母をはじめ周囲が面倒をみてくれたので心配はなかった。姑も嫁ではなく、娘として迎えてくれた。日本式を押し付けることはなかったが、ダメなことはダメとはっきり言ってくれたのがありがたかったという。しかし3ヶ月を過ぎたころ、生活をしていくにはカタコトの日本語ではダメなことに気がついた。「近所で会ってもあいさつだけ、私のことみんな嫌いなのかと思いました」。
肌の色など、日本人と自分の違いを意識したのはその時だった。しかし、長男の翔君が生れると近所とのコミュニケーションも増え、たくさんの友人の輪が広がっていった。アナマリアさんの日本語も一気に上達。「最初、主人の友人から覚えた日本語は男言葉でした。お母さんにそんなはずかしい言葉を使ってはダメと教えられるまで分かりませんでした。郵便局、銀行、言葉が学べるチャンスがある所にはどこにでもついて行きました」。
日本の生活にも慣れたころ、家でじっとしていることが苦手なアナマリアさんは、託児所が完備している職場で働いた。今度は日本語が話せるだけではなく読み書きも必要だと感じた。最初は看板で漢字を覚えていったので、山や川は分からなくても○○株式会社や△△建設などの字は読めた。車のナンバー、カラオケ、すべてが学びのチャンスだったという。学ぶことは苦ではなく、むしろ楽しかった。五井会館、光の子幼稚園に通った日本語教室、翔君が小学校に入学した時は自分も一緒に勉強するつもりでみてやった。
そして彼女の次なるチャレンジは運転免許。「下の子も生まれ、子育てをしていくにも仕事をするためにも必要だと感じました。実技はともかく、カナもふっていない漢字がいっぱい。しかも引っかけの多い問題を理解するのは大変でした」。3回目で合格した時には、自分が日本人になれたような自信がついたという。
現在、午前中は車でお弁当の配達の仕事を、午後は週に2回自宅で子どもたちに英語を教える他、学校の役員、サークル活動と忙しい毎日を送る。年に数回市内の小学校の依頼で英語に親しむ教室も担当している。
今
彼女の話す日本語はとてもなめらか、上手だとほめられる。最初のうちはうれしかったが、今は同じことを言われても違うという。意識して日本人になろうとしていた昔とは違い、自分では日本人になったと思っているのにがっかりするのだ。彼女は何も言わないが、これまで多くの偏見を味わってきただろうと周囲は推測する。「人はそう思っても、自分は意識しないようにしてきました。言葉や肌の色など、見かけの違いはあっても同じ人間。日本人でもフィリピン人でも良い人もいれば悪い人もいる。風習や文化の違いはあっても人としての基本は変わりません。私は日本に来て、たくさんの人から親切をもらいました。日本人は人の目を気にして自分の気持ちをストレートに出せない人が多いけれど、どんな人でもこちらが誠意を見せれば応えてくれるとお母さんから教わりました。最近しゃべり方もお母さんに似てきたと言われます」とアナマリアさんは笑う。6年前、舅が亡くなったのを期に姑と同居した。2人の仲の良さは周囲もおどろくほどだ。
働きもので、がんばりや。たくさんの日本人の友達を作って、もっと日本の文化を学びたいと話す。今度は子どもたちに英語を教えられるよう、指導者の資格を取りたいのだと教えてくれた。