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息子から受け継いだ      
精神を糧に…

向井  喜美子さん(大網白里町)
向井喜美子さん

  「息子は治ると自分に言い聞かせてきました。その反面、私は息子の死を恐れていました。そして、その日は突然訪れました」と語るのは向井喜美子さん(55)。息子の稔さんを24歳で亡くしてから2年が経つ。稔さんの病は骨肉腫だった。病院の転院や入退院を繰り返した後、治療法がないといわれ自宅に帰されていたときに最期を迎えた。残された家族3人で静かに見送った。「楽になっていいよ」と話かけたら、自然と血圧が下がって息を引き取ったという。
  稔さんが発病したのは、念願叶って都内の大学に入学した直後の平成7年5月の末のことだった。最初は筋肉疲労と言われていたが検査の結果骨肉腫と分かり、悪性腫瘍で生存率は50パーセントと宣告された。家族で話し合う間もなく翌月6月から抗ガン剤治療が始まった。その後、18時間にも及ぶ大手術を受けた。手術は成功したが、すぐ肺に転移し、その1年後には足の切断もまぬがれない状況に陥った。
  幼い頃から痛いとか辛いとかを一切口にしない、マイペースな性格の息子だった。親に甘えない性格に歯がゆさを感じつつも、これも個性と認めながら育てた。「足の切断を迫られたときや、ガン再発の現状に耐えられないときも、家族を遠ざけ自分ひとりで耐えていました。目の前で苦しむ息子に、手を差し伸べたい思いでいっぱいでしたが、わたしは何もしてあげることができませんでした」。親離れしたい年齢に親の世話になることは、別の意味のつらさがあったのではと喜美子さんはいう。
  片足になってからも、稔さんは目標を持ち続け、それに向かって全力を傾けた。車の免許を取得したり、パラリンピックの公式種目であるシッティングバレーボールの日本代表選手候補にも選ばれ、事前に行われた韓国との親善試合もレギュラー選手として活躍した。また、入院後の様々な体験を通じて、カルテの開示、インフォームドコンセントなど、自分を含めた患者の意志尊重のために、その重要性についてを医師に訴え続けた。しだいに法律への関心が高まり、弁護士も目指そうとした。「5年の間で自分の精神を高めていきました。息子ながら立派だと思いました」
  喜美子さんはこのような息子の態度から、家族や子育て、そして自分自身の見直しを迫られたという。「何が一番大切で、欠けているものは何かを教えてもらえたような気がします」
  稔さんの死後、ショックのあまり4、5カ月間は家でひきこもる生活が続いた。「かなり息子に心をよせて月日を重ねてきたものだから、その後私は途方に暮れていました」。深い悲しみの日々を過ごしながらも「私たち家族を支えてくれた人や地域、病院に何かお返ししたいという思いがいつもありました」
  そんなとき、介護ヘルパー養成の講座が町内で開講されることを知った。受講してみると、自分の介護体験と重なることが多く、息子を思い出すことがしばしばあったという。「受講を通じて自分を客観的に見つめられたことは、辛くとも貴重な経験でした」。講習終了後、週に5日間介護ヘルパーとして85歳の男性のお世話をし続けている。「自分がお返しするつもりだったけれど、逆に元気をもらっています」と笑みを浮かべる。
  今の喜美子さんを支えているのは、他ならぬ稔さんの言葉だ。『医療における優しい心とは共感の心』。遺品の整理をしていたとき、パソコンの中にそれを見つけた。ものを書き残すことをあえてしなかった息子が、自分の心情を全て吐き出しているページだった。「これは、私が介護ヘルパーを志す動機になりました。遺言と受け止め、自分の課題にして仕事をしていこうと思いました」。しかし、ヘルパーの仕事は肉体的にも精神的にも楽とはいえず、思い通りにいかないこともよくあるという。だから、仕事帰りに毎日「これでよかったかな」と息子に問いかける。息子には「本当にそれでいいと思っているの?うそはつくなよ」と手厳しく言われているように思えるという。
  喜美子さんの胸のロケットには稔さんの写真が入っている。「とにかく今を生きる。今を大切にする」。これは息子から受け継いだ精神だ。ヘルパーの仕事を通じ、家族をはじめ人と人とのつながりの大切さを日々実感しているという。「自分を待っていてくれる、必要としてくれる人がいることは幸せです」。息子の死を見つめながら静かに語った。(本城)


クリスマスパーティで看護婦さんたちに囲まれて シッティングバレーボールの試合風景

  



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