NO.92

風に吹かれて出かけてみれば

― 市原市鶴舞 ―

明治維新の名残を地名に訪ねて

 

 明治維新、上総国鶴舞藩に浜松から転封となった井上河内守正直によって、まちづくりが行われた鶴舞は、かつて城下町として栄えた。版籍奉還後、藩主は藩知事となり、廃藩置県後、藩は鶴舞県となった。正直公の統治は、わずか15カ月という短期間だったが、鶴舞はその後も南部の中心地としてにぎわった。今も残る当時の地名を、鶴舞在住の河合亨さん(67)に尋ねた。

 河合家は、正直公と共に鶴舞に赴任して来た家臣だったという。河合さんの住まいは、鶴が羽を広げたような地形から地名がついた鶴舞の西の入り口にある。立派な簑囲いの門をはじめ、旧家の面影を残した家屋と庭は、今年度の市原市都市景観賞にも選ばれた。
 「当時の鶴舞は、今よりもっと広い範囲を言っていました。『北本町二丁目』や『北壱番小路』など、鶴舞が京の町を真似て碁盤の目のまちづくりをしたことが地名から分かります。現在の住所は、すべて鶴舞何番地となっていますが、私の家があるこの辺りは今も『富士台(フジダイ)』と呼んでいます」。樹木が茂り、今は見えなくなってしまったが、バス停や児童公園に富士台の名が残る高台は、富士山の絶景スポットだったに違いない。
 富士台の北側は『室戸(ムロト)』。通りから一本入ると、立派な門構えの農家が点在する畑が広がっていた。竹林を抜けて少し下ったところにある池は、室戸堰。まっ白に霜が降りた冬晴れのその日、池の表面には薄氷が張り、青空を映していた。
 牛久と鶴舞をつなぐ県道をはさんだ向かい側、県立市原園芸高校がある場所は『雪解沢(ユキゲサワ)』といった。その昔、ここにあった鶴舞高校(現鶴舞商業)の分校を、雪解沢校舎と呼んでいたのだと河合さんが教えてくれた。今も園芸高校の農場名に、その名が付けられている。
 鶴舞の中心地、藩庁跡は現在の鶴舞小学校の敷地内にある。石碑と立て札の説明書きから、当時の様子を知ることができる。小学校のグラウンドは『馬場先(ババサキ)』となっていた。小学校向かいの路地には、士族の家が並んでいたという。寒椿横の古木とその切り株に、当時が偲ばれる。公民館の隣りにある鶴舞神社には、かつて藩校があったことを伝える立て札がある。神社そばの『子来(ネゴロ)』の地名は、藩校で学ぶ子ども等とイメージが重なる。
 「子どものころ、目抜き通りは桜並木がトンネルのようになっていました。警察署や銀行、郵便局や法務局といった公共施設が集まり、決まった日には市もたって、とてもにぎやかでした」と、河合さんは戦前の鶴舞を語る。「私が通っていた頃の小学校の写真があります」と渡されたセピア色の写真には、木造にしてはモダンな小学校の体育館が写っていた。
 今では、知る人も少なくなったという昔の地名。『卍小路(マンジコジ)』『営背』(エエハイ)』は、その由来が知りたいところだ。同じコガネダイでも、隣接地域は『小金台』と書くのに、領地内では『黄金台』となる。鶴舞人の誇りの高さが、伺われるようだ。   (国)

地図


河合邸門

河合 亨さん

鶴舞小学校旧講堂

冬の室戸堰
  



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