講演『人生を楽しく生きるために』より講 師 松 居 一 代さん・ 女優 ・ 11PMの司会者としてデビュー・ 映画、テレビ、舞台などで活躍 ・ 著書『隆一の凄絶アトピー日記』の出版を 機に講演活動も行っている 私は生まれた時、小さく体も弱かったそうで、両親は「一代、精一杯生きていってほしい」との願いをこめh一代iと名づけました。父は日本に競艇ができた時の第一号選手でした。40年間・64才まで第一線を君臨してきたのですが、それは減量との闘いでした。体重が軽いほどボートは速く進むので、勝つために空腹でもあまり食べないんです。私はテレビに出てお金を儲け、早く父を楽にさせてあげたいと思っていました。待っていてもチャンスは来ない。19才になると思い切って東京に出ました。ボロボロのアパートに住み仕事を探しました。数え切れないほどの人に会ってお願いしましたが、誰も相手にしてくれません。3年後・夢破れて、滋賀県の親元に帰っていきました。 ある日、性格が暗くなったことを気遣う大阪の友人から、食事に誘われました。出かけたレストランで偶然、隣の席になった人が「今、11PMの司会者・藤本義一さんの相手役を探している。一度テレビ局にいらっしゃい」と声をかけてくれたのです。半信半疑で上京しました。藤本さんは競艇で旗振りのアルバイトをなさったことがあって、父をご存知でした。親近感を持って下さったことで、テレビ出演の夢がついに実現することになったのです。 その後30才で結婚し、女の厄年に待望の男児を出産。ところが生後20日たった頃、息子の肌が真っ赤にただれ、全身がザクロのようになってきました。体の中から毛穴を通して膿が吹き出してくるような状態で、目も鼻も分からない位ただれきっています。病名はアトピー性皮膚炎・・。助けてくれるのは医者しかいない!それも大病院の有名な医者がいい!国立の病院へ行き、アレルギー科の権威ある医者にかかりました。「母親の食べ物は母乳に影響する」と言われ、血液検査したところ調べた食品のほとんどにアレルギー反応が出ました。食べて良いのはサツマイモだけ。それからというもの3食イモ、イモ、イモ。でも私がいくらイモしか食べなくても息子の症状は改善しません。痩せていく私に、先生は特殊なミルクを勧めてくれました。でもこのミルクを飲ますと今度は下痢をします。 信頼できなくなって、次は本を出している有名な皮膚科の先生にかかることにしました。すると「アトピーと食べ物は関係ない」と言います。もう訳が分からなくなりました。結局、アトピーに関しては医者もまだ手探りだったのでしょう。 息子は一日中痒がります。掻かせないよう抱っこして、夜もタオルで押さえたままソファで仮眠。ちょっと目を離すとスグに血がポタリポタリ。熟睡できず、顔を洗う間もない。主人は家を出て仕送りもありません。経済的にも苦しくなり、体力・気力が尽きそうになったある日、NHKに重度障害児が出ていました。額に『苦労』の2文字が刻まれたお母さんを想像したら、はちきれんばかりの笑顔の女性でした。「長い間、子宝に恵まれなかった。待望の赤ちゃんは重度の障害もち。涙が枯れる頃、ようやく気がついたのは、神様は選んで私達にこの子を授けて下さったこと。だから選ばれた人間として頑張っていこうと思う」。体に電流が走ったような気がしました。 息子が3才半になった時、友人が中国人漢方医を紹介してくれました。調合して貰った薬を土鍋で煎じること2時間30分。ハンパじゃない臭さ。コップ2杯半のドロドロの液。息子はノドが腐っちゃうヨと言いながら、治りたい一心で飲み続けました。希望が見え始めた51日目、いつものように訪ねると、何と先生が消えているではありませんか。日本の医師免許がなかった為、帰国させられたのです。 わずかな情報をもとに手はずを整え北京へ飛びました。湧いてくるような人波、祈る気持ちで待ちました。やっと先生を見つけた時、私は道路にしゃがみこんで泣き出しました。「こんな遠くまで・。お母さんの気持ちが痛いほど分かりました。何としても治してあげなくては」。その人は電気もない貧しい家で毎日毎日、朝と夕方、薬を作ってはホテルに届けてくれました。私は北京で温かい心を貰って帰国しました。2ヶ月分の薬が切れる頃、息子の肌はつるつるになって、4年ぶりに布団の上で眠ることができたのです。 この話が広まり、体験談を『主婦の友社』から出版することになりました。不眠不休で書き上げた翌日、次の試練が待っていました。私の顔の半分が動かなくなったのです。片目は開いたまま、口も閉じることができず、よだれがタラタラ。味覚がなければ、しゃべることもできない。つねってもたたいても感覚がないのです。右顔面マヒ・オバケのようでした。(中略)
☆ ☆ ☆ ゼネコンが倒産する時代になり、突然わが家の天井が抜ける不運にも見舞われました。建築会社と闘ったり、欠陥住宅のアドバイザーみたいなこともしました。一方、女優業はドラマが減って仕事が激減。どのチャンネルもバラエティ番組ばかり。考えた末、講演活動を始めることにしました。「講師として使って下さい」「どんな分野にお強いですか」「何にもお強くありません。学歴もありません。唯一、誇れるのは馬力です。試練を乗り越えたたくましさがあります。元気配達人として全国どこへでも行きます」。そうやって今日は市原市に来ました。