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甲子園への切符
- 2014/8/22
- シティライフ掲載記事, 市原版

我が家を訪れた美代ちゃん(後列右2番目)と喜代子さん(後列左端)
遠山あき
球児なら誰でも夢に見る甲子園への切符。今年千葉県代表になった東海大学付属望洋高校は、初の夏の甲子園出場となった。彼らの熱い戦いが繰り広げられるこの季節、私には特別な感慨がある。
古い話になって恐縮だが、私が新卒の教員で初めて勤務したのが印旛郡大森小学校、受け持ちは三年生だった。クラスに菊地美代ちゃんという子がいた。姐ご肌で勝ち気だがいい子だった。古き良き時代で、新米の先生の言うことをよく聞く素直な子ばかりだった。未だに当時の子たち(八十数歳)が会いにきてくれる。美代ちゃんの親友だった喜代子さんが来てくれたのは、平成二十一年の秋。美代ちゃんが脳腫瘍で亡くなったとの報告も兼ねてのことだった。話は当然、美代ちゃんのことになった。
美代ちゃんが結婚し、息子さんが小学二年生になった時、両親を失った。続けてご主人も亡くなり、中学三年生の弟と息子が美代ちゃんとともに残された。生活のために美代ちゃんは勤めに出た。進学を前にした弟は成田高校を望み、合格した。そして長年の夢、野球部入部を選んだ。ところが中学担任だった先生に「君は野球部に入ってもろくな選手にはなれないぞ。能力不足だ」と言われた。弟は一晩中悔しさに泣いた。それを知った美代ちゃんは眦を決して言った。「野球部に入りな!姉ちゃんは体を張って応援するよ!メソメソするんじゃないよ、男じゃないか」
そして弟の菊地昭雄氏は野球部へ。主戦投手で活躍したが、甲子園は遠かった。卒業して彼は相互銀行に入った。昭和五十九年、成田支店の支店長の内示があった十一月、成田高校、及び成田山新勝寺から「高校事務局長を兼ねて野球部監督に」と強い要請があった。迷いに迷った末、彼は高校側の強い説得もあって成田高校へ移った。それから六年後の平成二年。菊地氏の長い長い夢、それこそ夢ではないかと思う甲子園への切符を、成田高校は手にした。三十八年ぶりの出場だった。当時の美代ちゃんの喜びはどれほどだったか。思うに余りある。
今年、千葉大会の解説に菊地氏が出演した。高校球児たちの姿を見、既に監督を退いた菊地氏の心中を思い、地下に眠る美代ちゃんの思い出も胸が熱くなるように蘇って、私は涙を禁じ得なかった。
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