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個人でパキスタンへ、農業支援ボランティアを~青葉台在住 田中達郎さん~【市原市】

【写真】パキスタン・カラチの整備途中の農場で、働く青年たちと田中さん(前列右端)

 36年間の市議会議員のあと、パキスタンで個人的に農業支援ボランティアをしている田中達郎さん。「縁あってのことなので、私から積極的に始めたことではないんですよ」と話すが、すでに2016年から7回赴き、滞在期間は2週間~3カ月と毎回違うものの、現地の人たちと作業をした日は1年半を越す。その間、町会長などの自治会活動も行い、先月には市原市町会長連合会にて、代表で表彰状も受け取った。喜寿を迎え、さらに活動を続ける田中さんに話を伺った。

1月の市原市町会長大会にて、表彰される田中さん(写真提供:市原市役所 地域連携推進課)

議員時代からの友人の依頼

田中さんは市原市椎津の生まれ。戦後の物のない時期に子ども時代を過ごし、中学から高校時代は柔道に邁進、今でもがっしりした体格はその時からだという。卒業後は地元の個人経営会社で働いたり、実家が行っていた塾のそろばん講師などをした。「約3年間は台湾で農業機械の販売の仕事をしました。日本から部品を持って行って現地で組み立てて、オートバイやトラックで台湾全域を走り回りましたね。日本に戻って塾の講師をしていたとき、当時、内科医で市議会議員の故相川仁保(ひとやす)先生のすすめで、新宿にあった政治大学校で学びました。その縁で、私の議員活動が始まるんです」
田中さんの市議活動は秘書を置かず、ひとりで1日60件もの相談を受けて走り回ったこともあったという。その間に知り合ったのが、長年友人としてつきあうことになる、日本国籍を持つ貿易業のパキスタン人だった。「彼は日本語を含め5カ国語が話せます。度々仕事で市原に来ていた彼を、第1回上総いちはら国府祭りに誘ったら、パキスタン駐日大使にも話が繋がりました。大使たちを祭りに招待して、当時の佐久間市長と対談することにもなり、彼の人脈の広さに驚きましたね。彼は母国では広大な農場を持つ農園主でもあって、『日本式の農業で運営したいから手伝って欲しい』とお願いされたのが議員をやめて数年たったころ。私のパキスタン行きの始まりでした」
農業の経験がまったくなかった田中さんは、最初、「大規模農業なら欧米式で考えたらどうか」とその友人に提案した。「ところが彼は『自分は日本が大好きだ。日本の丁寧で優れた機械式農業だから学びたい』と言う。その熱意に負けた私は、60代後半で農業の勉強を始めるわけです」。この時、役に立ったのが議員時代の人脈。現在の市原市農業センター、JA市原市などに通い、現地の気候に合う作物や、日本での栽培方法の特徴、種と肥料の関係など、様々なことを教えてもらったという。「後は、とりあえず現地へ行って、実際の状況を見ながらやるしかないと、パキスタンへ行きました」

鶴舞にて、伏谷如水・清水次郎長の碑と

 

人助けが生きがいになる

パキスタンの農場は広大だった。場所は第2の都市・カラチの郊外。土地改良で見渡す限りの更地、真っ平らな茶色の大地が広がっていた。「隣の農場も6000ヘクタールですからね、もう地平線までずっと続いているんですよ。凄いところに来ちゃったなあ、と思いました」。パキスタンはインドの北側、熱帯の国。宿泊する家はあるが、暑すぎて中にいられない。現地のひとも、外に出て虫除けの線香をつけて寝て、日中も風の通る日陰に入って休む。田中さんも作業の合間、同じようにして休憩をとった。「私はパキスタンの言葉は分かりませんので、友人が通訳でした。今でも挨拶程度しかできませんが、なぜか地元のおじいさんたちに『日本から来た小さなおじさん』と言われて、もてました。私は横幅はありますが、向こうは背の高い細い人が多いですから、珍しかったんでしょうね」
現地での主力生産品のひとつはマンゴー。大木に大きな甘い実をたくさんつけるが、そのぶん虫食いの被害が課題だった。日本に戻った田中さんは、現地での問題点や解決策を農業大学の研究者などに聴き、現地に伝える役割も担った。使う機械の打合せにタイやドバイにも行った。そうして田中さんがパキスタンを主に行き来するうち、国際支援団体・ペシャワール会現地代表の中村哲さんが、アフガニスタンにてテロの銃撃で死亡する。「中村さんはパキスタンでも医療活動をしていて、現地でも有名でした。アフガニスタンはパキスタンの隣国。私がパキスタンにいる間、何か起こっても不思議じゃない。もしかしたら危険なこともあるかもしれない、と覚悟して行きました」
農場は2022年に起きた大洪水にも巻き込まれたが、何とか復興し、最初の茶色だけの殺風景だった大地は、今や見渡す限り緑豊かな風景になっている。田中さんは今年もパキスタンに行く予定だ。「友人を訪ね、アメリカや中国へ40日間ずつ行った時は、個人的ですが国際交流の面も心がけました。私の長年のモットーは『地球規模で考えて地域で行動する』。これからも一層、地域(町会)、市原市、国など、世界のため人のために、感謝、礼儀、献身、奉仕の気持ちを忘れず、地元で続けている防犯パトロールなども含め、元気なうちは色々やっていこうと思っています。それが生きがいですよ」と田中さんは快活に話を締めくくった。

何もなかった更地から畑となったカラチの農場には、多くの緑が成長する