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養老川を渡れなかった仏様と波の伊八
- 2016/6/24
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ちはら散歩 高滝湖畔と文化財
千葉県一の貯水面積を誇り、市原市と周辺の貴重な水資源である高滝ダム湖。清澄山系を水源とする養老川を堰き止め、21年の年月をかけ平成2年に完成した。かつて暴れ川と称され、人々を苦しめた川は、一方で、交通路や農業用水として利用され、肥沃な土をもたらした。その水辺には古くから人々が暮らし、貴重な文化財を守ってきた。
5月16日、ちはら台コミュニティセンター主催講座『ちはら散歩~高滝湖畔と文化財』が行われた。スタッフを含めた29名がバスを降りたのは高滝ダム管理事務所。「大人の社会科見学だね」、「わくわくする」などと言いながら、同事務所職員の案内で施設見学をした。今や湖畔は、美術館や水生植物園などが整備され、サイクリングや釣りが楽しめるレジャースポットとなっている。しかし、講師である日本自然保護協会自然観察指導員の山田隆男さんの「事務所から見える長泉寺の鐘楼は104戸の家とともにダムの底に沈んだ先祖を慰霊するために作られたそうです」との説明に、ダムの利便性とともに失われたものもあると気付かされる。
日本最大2.75メートルの木造地蔵菩薩坐像を目指し出発。途中、「スイカズラは花の色が白から黄に変わるから金銀花ともいう」など道端の植物の由来を聞き、クサイチゴやクワの実を口に入れ歩く。到着すると普段入ることができない収蔵庫のなかで、地元の地蔵管理委員会の根本秀康さんの話を聞いた。
鎌倉後期の作でお顔は室町時代以降の特徴があるという県指定文化財の仏像。もとは地元住民が「さんじゅやま」と呼ぶ音信山にあった光明寺のご本尊だった。「時期は不明だが、現在の池和田に寺が移る際、大きすぎて養老川を渡れず、ふもとの山口村に残されました」。昭和11年頃には買収話もあったが村人が反対し守った。対面すると人々の苦しみを包み込んできたふくよかな姿に心が落ち着く。「子どもの頃、友だちと覗いたが見られなかった」と思い出を語る高滝小の卒業生もいた。
次にダムの堤と小佐貫橋を渡り、対岸の県と市の取水場を見て、沢又橋を直進して光厳寺へ急ぐ。待っていたのは檀家の責任役員の武正幸さんと総代の市原一男さん。寺の創建は14世紀。明治期に縮小されたが、かつて境内は892坪、お堂は80坪あり、高滝神社を管理する別当寺だったというからその権勢が想像される。江戸中期の不動明王坐像は平成22年に市と檀家らの厚志により修復された。鎌倉時代末から南北朝時代の作と見られる胎蔵界大日如来坐像と金剛界大日如来坐像は「修復したいが少子化の進む檀家の力だけでは難しい」と武さんは語る。3体は市指定文化財。向拝には初代波の伊八の龍の彫刻がある。市原さんによると「昔は堂内にあったので、本来はもう少し低い位置から見るものでした」とのこと。風雨にさらされてはいるものの、下から見ても迫力は伝わる。
ふれあい広場に到着し、ダムに水没した遺構も残る、養老川流域8カ所あった藤原式揚水機の復元された姿を眺め、昼食。午後から湖水を見守るように鎮座する高瀧神社に向かう。平安時代の歴史書、日本三大実録に記される古刹。江戸時代の社殿と末社社殿は市指定文化財、鎮守の森は県指定天然記念物だ。境内には子持ち石、夫婦円満のご神木のナギ、安産の底なし袋の奉納所がある。春の花嫁祭り、秋の流鏑馬とケンカ神輿が有名で、ダム建設前は門前町があり、賑わったという。
高滝湖西岸を進み、高滝に残る民話の壁画を経て、子孫繁栄や生産の神様、棒神を祀る八坂神社に至る。晴天で、気温が上がったためか、疲れた参加女性から「散歩以上の歩き方」と弱音が出たころ、三峯神社の樹齢300年ある大イチョウが見えてくる。幹回り10.3メートルの大樹にはすでに青いギンナンが実っていた。神社に社殿はなくイチョウの下に小さな祠と鳥居があるだけ。そばにダムに沈んだ灌漑用水について伝える記念碑もある。
自然観察用のクイズを解きながら、水田や畑の間の道を抜けて歩くと、4年以上経つと咲くコンニャクの花に出合う。水上テラス付近から、ようやく到着地点の加茂支所の三角屋根が見えた。歩行距離約8キロだった。