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懐かしのシネマ~石原裕次郎~
- 2025/2/14
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昭和を代表するスター「石原裕次郎」は今年、生誕90年。映画やドラマで大活躍し、歌手としてもヒット曲多数。誰からも愛された「裕ちゃん」の魅力をご紹介します。(文中一部引用あり)
兄は小説家・政治家・元東京都知事の石原慎太郎。1956年(昭和31年)、慎太郎の芥川賞受賞作「太陽の季節」映画化の時に、映画プロデューサー・水の江瀧子(ターキー)と慎太郎の推薦があり、同映画作品の端役でデビュー。慎太郎原作の映画化作品「狂った果実」で主演、同年「乳母車」の好演で評価を高め、製作者協会新人賞を受賞。この年に大学を中退し日活に入社。1957年(昭和32年)、映画「俺は待ってるぜ」「嵐を呼ぶ男」などが大ヒットし、主題歌・他の歌等もヒット、ブルーリボン賞新人賞も受賞して人気絶頂を迎える。
1960年(昭和35年)、交際が噂されていた女優・北原三枝とアメリカ婚前旅行へ。結婚後も人気を維持し、出演作の興行成績も好調だったが、五社協定(※)の中で1963年(昭和38年)に石原プロモーションを設立。1968年(昭和43年)、三船敏郎と製作した上映時間3時間の超大作「黒部の太陽」が大ヒットした他、「富士山頂」「ある兵士の賭け」など多数の作品を製作。しかし、映画界斜陽の時代もあって興行成績が出ず、会社の経営が悪化する。
そして現れたのが石原プロの福の神「渡哲也」。日活撮影所でスカウトされ、1964年(昭和39年)から日活にいた渡は、裕次郎への尊敬の念から倒産寸前の石原プロへ入社。石原プロは会社の再建と経営安定のため、テレビドラマへ本格的に進出。「大都会闘いの日々」「大都会PARTⅡ」「大都会PARTⅢ」とシリーズ化、続いて「西部警察」も5年間放映、「太陽にほえろ」も大ヒット。渡は石原プロの再建に貢献し、裕次郎の下で副社長も兼務した。
闘病記:1978年(昭和53年)、舌下潰瘍で入院・手術。その後悪性腫瘍(舌癌)と診断を受けたが、本人には告知されず。1981年(昭和56年)、「西部警察」のロケ中に背中と胸に激痛が走り、慶應義塾大学病院に緊急入院。1984年(昭和59年)肝臓癌が発覚、本人には最後まで告知されず。
死去:1987年(昭和62年)、慶應義塾大学病院にて16時26分死去。52歳没。戒名は、陽光院天真寛裕大居士。墓碑には、まき子夫人の直筆で次のような言葉が綴られている。〈美しき者に微笑みを、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。〉
※五社協定:1953年(昭和28年)の映画会社5社、松竹・東宝・大映・新東宝・東映による協定(後に日活が加わり、新東宝が倒産)。各社専属の監督・俳優の引抜き禁止・貸出し特例廃止などがあった。
◇黛葉(まゆずみ・よう)
茂原市在住。1942年生。元映画配給会社宣伝プロデューサー。現役時代は年200本以上を鑑賞、現在、放送された洋邦画の録画DVDは1100枚以上にのぼる。