歩いて確かめよう五井の街、今昔
- 2013/8/9
- 市原版

歩いて確かめよう五井の街、今昔
五井の町はどのようにしてつくられたのか?毎年12月に賑わいを見せている大市の始まりは?寺や神社に伝わる縁起とは?五井公民館主催『五井の街 再発見!』が6月4日、6月25日と7月2日の3回に分けて行われ、講師を務める『市原市ふるさと文化研究会』事務局長の青柳至彦さん(76)著『いちはら 歴史の散歩道』(市原市農業協同組合発行)をテキストに、約30名の参加者が五井の街を実際に歩き、歴史と文化について学んだ。
最初に訪れたのは守永寺。五井公民館を出発し、白金通りを南西に進みJA市原市Aマート付近で左折、徒歩数分の所にある。徳川家康の上級家臣であった松平家信の母、理安大姉の供養塔がある同寺は、1608年当初は理安寺と称し、現在の吹上通りにあったといわれている。明暦の大火(1657年)により江戸の邸宅を消失してしまった五井の領主、神尾守永が、この理安寺を壊してその木材で仮住居を建てたところ、毎晩のように続いた奇異な現象。理安寺を壊したことによる祟りだと占い師に告げられた守永は寺を再建、自らの名前に改めたものが現在の守永寺なのだそう。
続いて、五井大市の発祥の地である五井中央通りの高石呉服店跡を通り、宿大神社へ。1659年、守永は五井のまちづくりを計画した。南五井を上宿と定め、南北に五井の街道を割り通した。その宿割りの際に用いた縄と幣束をご神体として納め、五井宿の守り神として、また塩焚きが五井の重要産業であったことから、かまどの神の荒神様を併せて祀り、宿割大荒神として崇めたものが現在の宿大神社だという。
そして、1658年頃から宿割大荒神の祭礼の催しとして始めた鍋釜の市が五井大市の元祖だとか。当時は8月に行われていたが、明治時代に入って海苔漁業が盛んになった頃から年の暮れに行われるようになった。明治、大正時代にはサーカスや見世物小屋、道具屋、露天商などが立ち並んだそうだ。神尾守永は塩田を整備して産業を振興させ、市街地の造成や商業の発展に尽力した、まさに五井の街づくりに多大な貢献をした人物といえるだろう。
その後、将軍吉宗のお側用人として活躍し、1726年に五井の領主となったのは有馬氏倫であり、五代後の氏恕の時代に現五井駅辺りに陣屋を設けたと伝えられている。また、氏倫は主要地方道千葉鴨川線の五井市街の直線道につながる市街整備をしたとの説がある。
第2回目はオノト橋跡と若宮八幡神社について学んだ。白金通りを1本南に入った道、波渕の裏側に流れている小さな川。昔は五大力船が通るほどの川幅で、オノトの橋と呼ばれる大きな太鼓橋が架かっていた。この川の岸にある相川家によると、神職を務めていた相川久大夫がオノトの橋のたもとを神輿が流れてくるのを見つけた。夢で見た戸隠の神のお告げ通り、その神輿を惣社の地に祀ったのが、惣社にある戸隠神社の始まりだという。
日本各地でよく見られる八幡神社。国を守るため、戦いの神として崇められ、全国に広がったのは奈良から平安時代のこと。そして、「若宮」には「新たに創建された神社」、もしくは「本宮の祭神の子を祀った神社」という意味があるので、五井にある若宮八幡神社は、新たに八幡神を祀った、または八幡神の子であるオオササギノミコト(仁徳天皇)を祀ったという二つの解釈があるという。また、江戸時代にはご神体の本当の姿は仏様であるという神仏混合の考え方が広まっており、徳川綱吉の時代に十一面観音を納めたという言い伝えもある。敷地内には、富士山を形どって作られた富士塚があった。江戸時代には女性が富士山に登るのは禁じられていたが、当時盛んだった富士信仰により、万人が登れるようにと石や岩で作られたのが富士塚である。
ユーモアを交えて様々な言い伝えを楽しく語る青柳さんの講義。参加者から「何気なく過ごしている町が歴史でいっぱいなんだと知りました。とてもよかったです」との声が聞かれた。「皆さんの熱心さが嬉しかった。これからも、市原の歴史に興味を持って下さったらありがたいです」と青柳さん。知れば知るほど興味深い五井の歴史。先人が築いたものが、確かに今へとつながっていることを実感した。
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