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房総往来 番外編
- 2017/3/31
- シティライフ掲載記事, 市原版

あれから6年… 山里 吾郎
急に思い立った。「あれから6年か…」。そのまま旭市へ向かった。
2011年3月11日。東日本一帯を襲った未曽有の大地震。マグニチュード9。震度7の激震とともに東北から関東の太平洋岸一帯を襲った大津波。その被害は余りにも甚大だった。
千葉県では旭市が最大の被害を受けた。飯岡海岸を数度にわたって襲った津波で14人が死亡、2人が行方不明。その現場を訪れるのは地震直後からまさに6年ぶりだった。
千葉東金道から銚子連絡道を経て126号へ。約30年前、6年半にわたって銚子勤務をしていた自分にとって、東総方面は随分近くなった気がする。この時期としては絶好の天気、道路の混雑もなく、11時前には飯岡港に到着した。
港内の静かさを見届けたあと海岸沿いに旧国民宿舎「いいおか荘」(現潮騒ホテル)前に向かう。防潮堤そばに建つ「伝えつなぐ大津波」の碑には、あの日防潮堤を乗り越え、民家にまで押し寄せた津波の高さが最大7.6メートルに達した事実が記されていた。
ホテル前では2日後に迫った「3・11を継承する集い」の準備が進められている。語り継ぐ会の仲條富夫会長は「飯岡には数回の大津波が押し寄せた。最初は地震発生(午後2時46分)から約1時間後。道路や一部住宅が浸水したが間もなく引いたのでもう大丈夫と思った。この油断がいけなかった…」。
約3時間後の午後5時20分、最大の津波が押し寄せた。「ちょっと安心していたところを襲われた。私自身も100メートルぐらい流された。恐らく亡くなった方の大半はこの時ではなかったか。最初の時に逃げていれば。今でも悔いが残ります…」。
飯岡荘の一角には防災資料館が設けられている。緊迫の様子を伝える写真、新聞、テレビ映像、多くの方々の証言…。風化させてはいけない「震災の記録」。
飯岡海岸の歴史は浸食との戦いでもある。後背の旧海上町の開拓には浸食被害から逃れた飯岡の人たちが数多く加わったとも言われる。地震に加え、毎年のように襲う台風。被害に備えもともと4メートル級の防潮堤が設けられていたが、今回の災害を機に2メートル以上嵩上げされた。
取材を終え、九十九里の海岸線をそのまま下る。防潮堤の嵩上げ工事はずっと一宮方面まで続いていた。
◇山里吾郎プロフィール 本名・山口智。元千葉日報編集局長、論説委員。94年5月から2003年2月まで8年9カ月、市原支局長。他に館山支局、銚子支局、社会部デスク、政経部長など歴任。団塊世代1期生。
2013年6月より「房総往来」執筆。今回で43回。基本は県内紀行ですが、時折県外紀行になることをご容赦。