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福島から移住して市原へ 強く根付く花々とともにこの地で生きて行く
- 2016/5/13
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高野中男さん、ヨシさん
市原市在住の高野中男(なかお)さん(69)とヨシさん(67)夫妻は、5年前の東日本大震災を福島県大熊町で経験した。大熊町は福島県浜通りの中央部、双葉郡に位置し町内には福島原発の第1号機から4号機がある。原発事故の影響で地震発生の3月には避難が必要となり、ヨシさんは仕事を辞めた。「原発の良い、悪いの判断は別として。大熊町は原発で生計を立てている人が多い町でした。初めに高校へ避難して一週間。茨城県にある夫の実家へ半年、そのまた半年後にやってきたのが千葉県市原市でした」と回想するヨシさんだが、市原市へ来てからも引越しの回数を重ね、現在の上高根に住宅を購入した。
当初は3年を目処に福島へ戻ると計画していた。しかし、3人の子どもたちとも相談を重ねた結果、千葉に残る道を選んだ。購入した住宅の敷地内には山があり、敷地全体はかなりの広さだ。そこには、ヨシさんと中男さんの『山がなければ千葉に残らなかった!』と断言するほど強い想いがあった。
「福島の自宅にも山があり、東京ドームが入るほどの広さでした。桜の木は百本くらいあって、とても綺麗だったんです。畑を借りて野菜を作ったりもしていたので、今はその過去が生かせていると思います」と話すヨシさん達は、今年2月から竹やぶとなっていた山に重機を入れて伐採。2カ月間かけて整えると、4月から5月にかけて咲く信濃ツツジを150本植えた。
広い庭には、栗や柿、クルミの木があり、秋になるとたわわに実がなる。スギナやドクダミも豊富で、ヨシさんはそれらをお茶に加工している。「福島にいた頃にも、ナツハゼというブルーベリーに似たポリフェノールたっぷりの実で町おこしをしようと5年ほど活動していました。たくさんのナツハゼを育てましたが、今では実もそのまま、草刈りもしていません」と遠い福島に想いを馳せる。ヨシさんが草木に興味を持ったのは、50歳を過ぎた頃。一つの病をきっかけに、世の中の過度な進歩に疑問を持ち、人間が生きるために必要なのは食べるものだと痛感した。野草の魅力にはまって本を読んで勉強し、次第に色んな野菜へと手を広げていったのだ。
自分たちが育てた多くの草木、作物、慣れた生活環境。当たり前のようにそこで続くと思われていた生活を捨てるのにはプレッシャーもあった。「今は週末、子どもの仕事の手伝いでいわき市へ行くことが多いのですが、福島へ戻ると、どうしても悔しい思いが湧く」という。福島を忘れたわけではない。夫婦で30年暮らし、家族一緒に生きてきた土地。たとえ茨城や千葉に避難してきても、震災直後は特に手に入りにくかったトマトなどの野菜を購入しては、福島に運んで支援した。それは今でも続き、千葉から最近宅急便で送ったのは、旬の竹の子やフキノトウ。土地への愛情は、きっと永遠に変わらないのだろう。
そんなヨシさんの魅力はいくつもの悲しみを吹き飛ばすくらい強く前を向く力だ。市原市で2つめの避難先だった新堀でも畑を借りてニンニクを育てた。知人に声を掛けられ、市内のあらゆるイベントに参加してはギンナンを天ぷらに揚げ、串刺しにして販売した。元々身体を動かすことが好きで、面倒見もいい。人間だけでなく、作物や植物に対しても余すことなく注げる愛情は、市原でも大きく根を広げようとしている。
「この土地で生きていこうとした今、土地の人と関わっていきたいんです。時間はあっという間、悩んでいる暇はないですよ。家でじっとしていても、隣近所の顔は分からないですからね」と明るく語るヨシさんに、夫の中男さんも「私は主に運転手。でも、作業も一緒にします。妻は仕事にしても、何事も夢中になるんです。福島県でも暖かい方の地域だったので、千葉は気候もそれほど変わらず過ごしやすいです」と続け、二人並んで「二人の名前の中男とヨシで、私達はナカヨシ夫婦なんだよ」と笑顔を見せた。
現在、農薬を一切使わずに育てた作物で夫妻は『完熟すだちジャム』や『金ゴマ味噌』、『はぶ草茶』などを販売しており、サンプラザ市原などで購入可能。詳細は問合せを。
問合せ 高野ヨシさん
TEL 090-2273-4977