- Home
- 市原版, シティライフ掲載記事
- 【市原市】ボーイスカウト活動で長年の功績 最高位の『きじ章』を受章 鈴木國夫さん
【市原市】ボーイスカウト活動で長年の功績 最高位の『きじ章』を受章 鈴木國夫さん
- 2019/4/5
- 市原版, シティライフ掲載記事
- 市原市
市原市在住の鈴木國夫さんは昨年、公益財団法人ボーイスカウト日本連盟による最高の功労賞『きじ章』を受章した。同章は過去の国内贈呈対象者に皇族や元首相ら67人の名前が連なる希少な章。鈴木さんは現在、日本連盟の顧問・先達、そして日本ボーイスカウト県連盟顧問なども務め、千葉県出身者として初の受章となる。
ボーイスカウトは20世紀初めにイギリスで始まった教育活動で、市原に伝わったのは1948年、戦後3年目のことだった。アメリカ軍政部のロイオース・ホイットマン女史の指導で、千葉県に初のボーイスカウトモデル隊として八幡中学校に市原第1隊、八幡小学校に第2隊が結成された。「小学校4年の運動会で、手旗やゲームの演技を披露してくれた中学生のボーイスカウトに魅了されたんです。6年生になって入隊を果たし、以降69年間、ボーイスカウトと共に生きてきました」と話す鈴木さん。その当時の内容は奉仕活動の色が濃く、火の用心を呼び掛ける夜回りやゴミ拾いが多かった。キャンプやハイキングで野外体験を行うこともあったが、町内には信号機も少なく、千葉市まで行って警察官の手伝いで交通整理や、選挙の棄権防止を呼び掛ける活動もしたというのは、今では考えられないことだろう。
「20歳になると指導者として活動しました。小さい子どもの面倒をみるのも好きだったんでしょうね。みんなの合意を得ながら物事を進めることに苦労しながらも青少年育成にやりがいを感じたのだと思います。祖父や父が教職に就いていたこともあり、自身の性格にも合っていたのでしょう」と、振り返る。ボーイスカウト活動をすることで、小さな変化もあった。「小学校の頃は、家の中で野球ゲームや紙相撲を作って遊ぶのが好きな内気な性格だったのですが、野外活動に触れたり、指導者として率先して動いたりすることで、会社の会議などの人前でもきちんと発言ができるようになった」とか。慶応大学卒業後は、三井造船株式会社に入社。会社員生活と並行しながら、ボーイスカウト県連盟でコミッショナーや連盟長、日本連盟で総コミッショナー・理事などを務めあげた。2004年には藍綬褒章、09年に旭日双光章、日本連盟の功労賞である『たか章』や『かっこう章』も受賞している。
日本のボーイスカウト活動は2022年に100周年を迎える。日本連盟100周年記念誌の編纂委員長としても活躍中だ。「先日、電車に着座して待っている時に席を譲るべく立ち上がったらもう一人立った人がいて『隊長!』と声を掛けられました。見れば、彼が小学生の時にボーイスカウト隊に所属し、指導していた子だったんです。長い時を経ても覚えていてくれること、そしてボーイスカウトの『おきて』が彼の心に残っていたことが大変嬉しかったです」と話す鈴木さんの、ボーイスカウトのおきてとは、誠実であり、友情にあつく、礼儀正しいことなど人として大切な8つをあげたもの。「私の心には常にスカウトのちかいやおきてがあります。定年がなく、色んな年代の人と関われる場所を引き継いでいけたら」と、穏やかに笑う。
ボーイスカウトの現状
千葉県連盟上総地区として登録されている市原市には5個団が所属している。市原市八幡、五井周辺をエリアとする第1団の委員長、田中秀近さんは、「市原市では現在、スカウトの子ども194名、リーダーの大人249名が活動中です。昭和58年、全国で34万人の登録数をピークに10万人に減少傾向です。常時登録は可能ですので、ぜひご参加ください」と呼びかけながら、鈴木さんについて「スカウトの規約や政策を作られたり、各種の著書を発表されたりと私にとっては神のような存在です」と続ける。田中さん自身も、25年ほど前に自身のお子さんの加入をきっかけに、一緒に活動するようになった。
「私は1964年の東京オリンピックの時、ボーイスカウトとして新検見川の運動場で国旗掲揚に携わることができました。2020年のオリンピックでも、スカウトたちが関われるように関係各方面に提案中です」と、鈴木さんの話す『ボーイスカウト』の活動は多岐にわたる。団として年3回、小学校や幼稚園を回って体験会を開催しているという鈴木さん。工作を楽しんだり、スカウトたちが栽培したじゃがいもを食べたりするという。多くの習い事やスポーツが広く親しまれている現代だが、ボースカウトを体験してみることもオススメ。
問合せ:鈴木さん
TEL.090・8590・3261