オリンピック2大会連続出場 悔しさで泣いていた少女の今
- 2014/3/28
- 市原版
体操選手 鶴見 虹子さん
「練習はつらいことが多く、耐える毎日だった。でも、練習は裏切らないと実感してきた。体操は基本が大事」と話した体操選手鶴見虹子さん(21)。ソチで冬季オリンピックが開催されていた2月15日、教育講演会『家族と歩み続けるオリンピックへの道』(青少年育成市津地区民会議と市津公民館共催)の終了後、同公民館にて「はじめて人前で話したので緊張した」とほっとした表情をみせた鶴見さんにインタビューをした。
埼玉県出身。育った家庭は体操とは全く縁がないそうだ。母親の洋子さんが活発な鶴見さんの有り余るエネルギーを発散させようと姉の通っていた体操教室に入れたのは5歳のとき。小学校2年生のときに父親の転勤で大分県から千葉県に転居し、佐倉市にある体操教室で中国人コーチ陶暁敏さんに出会い才能を見出されたという。同じ年、一家は市原市ちはら台に自宅を購入し、市原市立牧園小学校に転入。小学校6年生のとき、東京の体操クラブに通うため市原市を離れた。
中国やアメリカへスポーツ留学を繰り返しながら、14歳で第60回全日本体操競技選手権大会女子個人総合優勝以来6連覇。16歳のときに怪我に苦しみながら北京オリンピック代表最終選考会で床の演技を決め出場を勝ち取り、低迷していた女子体操競技をオリンピック団体総合5位入賞に導いた。17歳でロンドン世界体操競技選手権大会個人総合銅メダル、得意の種目別段違い平行棒で銀メダルを獲得。19歳のときに日本体育大学に入学し、家族がちはら台へ戻ったことで市原市は再び鶴見さんのホームタウンとなった。翌年、再びロンドンオリンピックに出場し、種目別段違い平行棒で7位入賞。2大会連続オリンピック出場という夢を実現させた。
現在は日本体育大学2年生。寮の4人部屋で集団生活をしている。上下関係は厳しく、輝かしい経歴をもつ女子体操界のエースといえども下級生は朝食作り、日用品の買い出し、体育館やトイレの掃除をする。しかし、「子どものころから大好きな料理をしてつらい練習を乗り越えてきたので苦にならない。授業に出て、勉強して普通の生活ができることが嬉しい。お休みもあるので友人とショッピングやカラオケにも行く」と楽しんでいるそうだ。とはいえ、授業を終えたあとに毎日4、5時間の練習が待つ。危険な技を繰り出す過酷な訓練に備え、恐怖心や失敗の経験を払しょくするためイメージトレーニングも受ける。目を閉じて心に浮かべることについては「秘密」とおどけて言った。昨年6月に右足を手術し、ようやく9月から復帰した。「怪我や故障は疲れているときに起る。体を休ませるいい機会になった」と前向き。痛みは残るものの次の全日本体操選手権に向けトレーニングに励んでいる。
講演では「辞めたいと思ったこともあるけれど、父親から現役時代が黄金の日々だよと励まされた。男子のように女子体操競技を盛り上げたい」と次のオリンピックへの意欲を語った。「試合中は緊張で表情が硬くなってしまう。もう少し笑うようにとよく言われる。これからは表現力をつけるので応援してください」との言葉に聴衆からは温かい笑いがもれた。
娘とともに演壇に上がった母親の洋子さんは「子どものころはよく泣いていた。長女に留守番をさせ、体操教室の送り迎えをし、車中でお弁当の夕食を食べ、帰宅すると滑り止めの粉だらけで寝てしまいそうになるのを抱えてお風呂に入らせた。夫も単身赴任で頑張ってくれた」と家族で支えてきた様子を話した。「北京オリンピック開催が決まったのは小学校3年生のとき。中国人コーチと世界を目指すと誓った日のことをよく覚えている。女子の体操選手のピークは16歳から17歳。年ごろの娘に背負わせるには重い選択だったが、虹子はもう家族だけのものではなかった。小さな女の子の夢が親戚、友人、ご近所へと広がり、日本中の人たちの期待となった」という。講演が終わるとサインや撮影を求める人の列ができていた。鶴見さんが通ったという美容院の女性によると「天真爛漫な子どもだった」そうだ。
「高校時代はできない技があるといらだち、泣いたり、ロシア人コーチにあたったりした。さぼったこともある」と率直に語る鶴見さんだが、逃げ出したくなるようなトレーニングに耐え、努力をする強さも合わせ持っている。将来はトップアスリートとしての経験を生かし、「種目も技も多い体操の楽しさを伝え、子どもたちの学校生活を大切しながらも厳しさのある指導者になりたい」とのこと。