父子で二人三脚
- 2013/4/26
- 市原版
父子で二人三脚
冷静な分析と熱い想いを三味線の音に乗せて
川上 浩市さん
聴いていてどこか懐かしく引きずり込まれる音。日本人だからこそ得られる感性は確かに存在するのではないだろうか。市原市辰巳台在住の川上浩市さん(17)は、そんな感覚を味合わせてくれる三味線奏者だ。4月より高校3年生に進級、将来の希望を膨らませている。浩市さんが三味線を始めたのは8歳の時。父、耕治さんがきっかけだった。耕治さんはかつてギターを弾くバンドマン。仕事が落ち着き再び音楽を始めようとしたが、メンバーの招集は常時できるものではない。一人でも没頭できる三味線に目を付け、楽器購入と講師のいる教室を必至で探した。すると、すぐに浩市さんも耕治さんの練習に付いていくように。「当初は、かっこいい楽器のある遊び場だった。いつかやりたいとは思ったが、みんなが練習している後ろの椅子でふざけて挟まれたりしていた」と笑う浩市さんが、その後三味線の道に入っていったのは自然なことだった。
平成19年第1回全日本津軽三味線競技会名古屋大会の小学生の部で優勝したのを皮切りに、同年第4回津軽三味線全国大会inKOBEで小学生以下の部優勝、平成20年第11回津軽三味線コンクール全国大会で独奏少年少女・小学生の部優勝、同年第5回津軽三味線全国大会in KOBE中高生の部優勝などめきめきと力を発揮した。「息子の稽古に私が付き添い、後ろで録音をした。自宅に帰ってから2人で教わった曲の解釈について討論会。せっかくやるなら全国大会に出られるレベルまで頑張ろうと挑んだ大会で、数回目に優勝できた時はとても嬉しかった」という耕治さん。
「結果を残すほど重い責任を感じるようにもなった。リズムや弾き方、『手(フレーズ)』について2人で喧嘩になることもあるが、それもやりがいに。三味線は生きていくのに手放せないものになっている」と話す浩市さんは、2010年第8回千葉市芸術文化新人賞を受賞した。同賞は、芸術文化活動を活発に展開し、新進気鋭で将来を期待される千葉市出身もしくはゆかりのある者に贈られる。耕治さんは「その年の候補者は数十名もいた。年齢的にも伸びしろがあると期待していただけたのかもしれない」と嬉しそうだ。
浩市さんは作曲も手がけ、楽曲がテレビCMに採用されたこともある。「作曲をする時は、特別な時間ではない。遊んでいる時、学校にいる時などにイメージがふと浮かび上がる。そこから切り開いて一本の線に繋げる。父が構成を行って、肉付けをしていくこともある」と続け、姿勢を正し少しはにかみながら話す姿や所作は、とてもなめらかだ。三味線と撥を手に自身作曲の『波月』を演奏する。力強い音の合間に静かな空間、伸びやかな旋律は、御宿の波月海岸をイメージして作られた。夜の海に月の明かりが差し込み、海面に静かなさざなみが広がる。そんなイメージが聴いている者に確かに伝わる響きを持っている。
浩市さんが息詰まった時はどうするのか。「父と公園に行って2人で演奏することもあるし、駅前で演奏して聴いてくれた人と話すなど気分転換をする。家で黙々とやるより、1人でもお客さんがいるとスイッチが入る」という。耕治さんのサポートも大きく、大会で思うような結果が出せなかった時は原因を冷静に分析する。パソコンで音の解析をしたり、審査員やマイクの特徴をつかみ次回に活かす戦略を練る。イベントでは来客者の年齢層を考慮し、演奏する曲目を選ぶ。耕治さんは、「感心なのは一度も辞めると言わないこと。舞台で演奏する時も、本番が一番いい出来だと周りの方に言ってもらえる強さもある。求めるとすれば、まだムラがある。日本の文化、および和事に共通して大事なのは『間』。これから人間性を含めもっと色々吸収して、聴いてもらった人の心が動くような演奏を出来るようになって欲しい」と浩市さんに熱い視線を向けた。
2人の会話を聞いていて心地よいのも三味線で学んだ『間』が生きているのかもしれない。浩市さんは「将来は日本の文化を海外に紹介する仕事に就くのが夢。まずは英語を頑張って勉強したい」と着実に未来の構想を描いている。
(松丸)