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手は精神の出口 伝統文化を未来に伝えたい
- 2015/7/3
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日本刺繍紅会副会長 高橋 信枝さん
古くは仏の姿を表した繍仏にはじまり、小袖、能装束、着物や帯、現代の装身具やインテリアに至るまで繊細な美しさと輝きで人々を惹きつけてきた日本刺繍。「繊維の宝石と呼ばれる絹地に光沢のある絹糸で一針ひとはり心を込めて刺します。1000以上の色と46種類のぬい方によって多くの色彩と立体感を作り出せるのです。こちらの屏風は観世流のシテ方能楽師が使う舞扇が題材」と日本刺繍『紅会』の工房による作品について柔らかな口調で話す高橋信枝さん(42)。
祖父斎藤磐さんは日本刺繍を精神性の伴った芸術へと高めることを志した名工。日本文化の衰退に危機感を持ち、1965年に同会を創設し、昔から伝わる技術を継承するプロの職人を育てる工房を東金市家徳に構えた。その後、職人のみが持つ技を一般の人にも教え、文化の裾野を広げたという。
高橋さんは4人兄弟の長女。物心ついたころから日本刺繍の手ほどきを受け、伝統工芸の世界で働く大人たちの姿を見て育った。「いつかは祖父のようになりたいと、夢と希望にワクワクしていました」。その祖父が亡くなり、大きな喪失感を味わったのは17歳のとき。父親の斎藤信作さんが跡を継ぎ、高橋さんは18歳になると寮舎で他の弟子たちとともに研修生として暮らした。
「手は精神の出口」と技と心の修養を説いた祖父の言葉を受け継ぐ暮らし。朝食前に畑仕事をしてから、刺繍を学んだ。特別な家に生まれ、当然できると思っていたのにぬえない自分、世間から取り残されたような仕事をする不安など悩みも生まれた。「うまくぬえないのを糸のせいにし、人に認めてもらうことしか考えていませんでした」。研修が終わる5年目、刺繍との向き合い方を気づかせてくれたのは人にも刺繍にも謙虚に心配りをする先輩の姿だった。「110匹ものおかいこ様の命を犠牲にした一本の糸。命を粗末にしたことを悔み、感謝をこめ技術を磨きたいと思いました」と針を動かす仕草をする。
日本の伝統工芸が大変なことになっていると知ったのは大人になってから。刺繍に関わる養蚕や技術はすたれ、なくてはならない手打ち針を作るのは女性職人一人だけになった。研修を終え、工房で一人前の職人として働いていた28歳のとき、紅会の副会長に就任した。「消えそうな伝統の技を未来に伝えたいという切実な思いからです」
同じころ、ニュージーランドで開催された世界各地の刺繍愛好家が集まる刺繍大会に合わせ、紅会による『日本刺繍世界展』を開くことになった。1991年に設立されたアメリカの日本刺繍センター紅会(非営利団体)。世界中に散らばる同センターの講座受講者の集大成となる展示会である。ニュージーランドに渡り、会場の下見などの準備に中心となって働いた。「今から考えると無謀だった」。しかし、反響は大きく、アメリカ、イギリス、日本を巡回し、以後、オリンピックのように4年に一度開催することになった。
次世代に伝えたいという思いを託し、母校である東金市立正気小学校の児童に卒業証書入れに施す刺繍を教える授業を15年以上続けている。「初めて教えた子どもたちはもう大人になっているはず」。昨年8月に立ち上げたのは能楽、錦織、西陣織、組み紐と和文化を受け継ぐ家に生まれた異業種の若手と手を組む『つなぐ文化プロジェクト』。昨秋には能舞台で日本の歌曲と工芸を組み合わせた音楽イベントを開いた。
紅会は、寮舎や事務棟など大小13棟の建物を囲む豊かな自然のある7千6百坪の敷地にある。作家島崎藤村の義姉が嫁いだ子安家から祖父が譲り受けた。「小説『夜明け前』のラストシーンにここの竹林が登場します」。工房『繍磐房』をのぞくと、42年間働く職人の山下善博さんが紅葉と富士山の額絵を刺していた。国宝『刺繍釈迦如来説法図』の復元模作を制作する腕を持つ。
高橋さんは「外国人も障がい者も日本刺繍に関わり一緒に働くのが夢」と世界の多様な人たちを視野に置く。「京都でも金沢でもなく東金から伝統文化を発信していきたい」と語る意思にはしなやかな強さがある。
工房は1週間以上前に予約すれば見学可(平日のみ)。10月23日、24日に同地にて展示会を開く。全国展は年に一度春に開く。入場無料。連絡すれば案内状を送る。
問合せ 日本刺繍紅会
TEL 0475・58・3311
E-mail info@kurenai-kai.jp
HP http://www.kurenai-kai.jp