大判小判と江戸の暮らし
- 2013/3/1
- 市原版
大判小判と江戸の暮らし
かつて人々は物々交換をして暮らしていた。飛鳥、奈良時代の『富本銭』と『和同開珎』は唐のお金がお手本。朝廷は流通させようと法令も出したが廃れ、平安中期までは利用しやすい米、絹などの物品貨幣が一般的だった。
昨年12月第2土曜日に開催された市原市埋蔵文化財調査センター主催『いちはら埋文講座』(全8回)7回目は『「お金」のはなし』。同センター木對和紀さんが参加者40人近くを前に講義した。
平清盛が取り引きした宋などの渡来銭が出回ったのち、日本独自のお金が登場したのは安土桃山時代。秀吉が作った『天正大判』は長さ約15センチで世界最大だ。家康の時代にも使用されたという。江戸時代は小判などの金貨、重さで交換された丁銀や豆板銀などの銀貨、1文銭などの銅貨が流通。物価変動に合わせ、3貨幣がそれぞれ別の基準で交換された。大判は贈答や報償用だった。「幕末は豆腐1丁(今の4丁分)58文、かけそば16文。米、銭湯代、大工の日当ほかもいれて、現代の物価に換算すると1文は約25円、1両は16万円ぐらい」と木對さん。参勤交代の費用は仙台藩で5千両、今の8億3千万円に当たるそうだ。
お話は大判小判の見分け方、江戸と大阪の通貨の違い、貨幣の交換比率差による金の海外流出など。木對さんが「1文1両の値打ちを調べるうちに幕府予算の4分の1を占めた大奥の諸手当に行き着いた」と当時の暮らしを語ると70代の男性は「庶民が搾取されるのは今と同じだな」と感想を述べた。