なかったこと

なかったこと  文と絵 山口高弘

 明け方の地震で飛び起きて、窓の外が見えたけれど雪は降っていない。「予報が外れたか」再び眠りにつき、もう一度目覚めると窓の外は、それはそれは鮮やかに白く雪化粧していて、まぶしいくらいの銀世界でした。長靴に履き替えて外に出ます。数時間前に降り始めた雪の地面はまさに新雪で、一歩踏むごとにぐぐっ、ぐぐっと柔らかく沈みこむ。気分が良くなって雪原を斜めに横切って、戻ってきました。
 ところが、です。昼の太陽に照らされて、宵を迎える頃にはすっかり解けてなくなってしまった。朝、雪を踏みしめた場所に雪はなく、空は嘘みたいに澄み渡った藍で、丸い月や星がくっきりと光っている。暮色蒼然、藍から茜へのグラデーションを描いた西の地平は遠く富士山を望んで、その黒い存在感が、宵口の空気を引き締めていました。
何もない夜の地面から始まって、また何もない夜の地面に戻った1日、いや半日。降雪は、なかったことのように。「こんなはずじゃなかった」で始まり、次の「こんなはずじゃ」が、それを綺麗に消し去ったのです。
 夜の喫茶店。僕はコーヒーのおかわりを注文しに、席を立ちました。2つ隣の席で熱心に紙を切り貼りしている女性が目に入りました。可愛らしく切った恋人との写真を綺麗な画用紙に貼り、『22歳おめでとう!』とある。恋人の恋人による恋人のための贈り物です。いつか誰かの手によって捨てられるまでは、永遠に近い輝きを放つ創作物。一瞬でしたが通りすがりに僕は、写真の『彼氏』に、同じ男として心の中で呟きました。
「雪みたいなもんだぞ。今楽しまないと、解けて消えちゃうんだぞ」いかんいかん何を思う。自分の人生に集中しろ。むくむくと起きた老婆心と、少しの嫉妬に急いで蓋をして、コーヒーマグに唇をあて、読みかけの本に視線を落としました。

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