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心を癒すハワイアンヴォイス
- 2015/8/21
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フォーク&ハワイアンシンガー 谷山 俊夫 さん
ゆったりとした独特の音の揺れが特徴的なハワイアンミュージック。気だるい夏の午後に聴くと、その気だるさが心地よさに変わるようなあの余韻はボトルネックと呼ばれるガラス製のものでギターの弦をこするスライディング奏法によって生み出される。元々、アメリカの黒人が酒瓶の首の部分を切り取って指にはめ、ブルースを演奏していたことからそう呼ばれるようになった。
複数のウクレレやギターをかき鳴らす賑やかなイメージもあるが、市内在住のTanyこと谷山俊夫さん(60)が奏でるハワイアンは一味違う。しっとりと落ち着いた雰囲気、爽やかで流れるようなハワイアンヴォイスは聴く者を魅了する。市原市、千葉市のレストランやバーでハワイアンとフォークソングを中心としたギターの弾き語りライブを行っている他、両市と都内でウクレレ教室を開いている。今夏から始まった上総更級公園センター前での月に1度の野外ライブ『ハワイアンの夕べ』にも出演した。同ライブでの演奏を聴いた人は「親しみやすいアーティストです。散歩していてもつい耳を傾けちゃう。惹きつけられますね」と話した。ライブはソロで出演することもあれば、バンドやフラダンサーがつくこともある。
民謡に演歌、ジャンルこそ異なるが音楽を嗜む家で生まれ育った。物心がついた頃から歌うことが大好きで、小学校に上がる頃には近所の人からクラシックギターを借りて弾くように。当時聴いていた音楽はラジオから流れてくる『禁じられた遊び』など。楽譜は読めなかったが、聴いた音楽をすぐに表現できる才能を当たり前のように持ち合わせていた。中学生の頃はエレキギターでザ・ベンチャーズ、ライブ活動や音響活動を始めた高校時代以降は、かぐや姫のナンバーを中心としたフォークソングとブルース、中でもアメリカのギタリスト、ロイ・ブキャナンに傾倒していた。「暗めの洋楽ばかり聴いていました。日本語が耳障りに聴こえ、英語がわかるわけでもないのにラジオは専らFEN(当時の米軍放送網)でしたね」と笑う。
20歳の時に北海道苫小牧市から上京、両親が内装業を営んでいたこともあり、都内のデザイン研究所でインテリアについて学ぶ傍らアマチュアロックバンドを組みエレキギターを弾きまくっていた。アップテンポな曲よりもスローバラードが好きだった谷山さんがハワイアンに目覚めたのはHAPA(ハパ)の『ピカケ(白い小さなお花)のレイ』を耳にしてから。「ハワイアンというと賑やかなイメージだったから、男性デュオ、ギター2本で演奏するシンプルな構成が新鮮だった。長年培ってきた自分の感性にピタリとはまりました」ハワイアンを歌うようになったのは2003年頃。ウクレレも始めた。ダンサーがつき、イベントとしても盛り上がるのでライブ出演の機会が増えたという。同年に千葉市中央公園で開かれた『アロハフェスティバル in CHIBA』では「ウクレレ1本で、ダンサーと観客、合わせて約500名が踊ってくれた。感激しましたね」と振り返る。だが、ウクレレについては「シンプルなだけに奥が深い。誰が弾いても同じように聴こえるところを、いかに自分だけの音、人との違いを出すか。並々ならぬ努力が必要です」と、その難しさについて語る。
現在行っているライブでは、『真夏の果実』や『恋のバカンス』など有名なポップスをハワイアンにアレンジしたり、苦手とするアップテンポな曲も自己流に編曲、バンド仲間に助けてもらいながらレパートリーに組み入れ、観客が楽しめるステージを作り上げている。
音楽の才能に長けた谷山さんだが、実は様々な顔を持つ。阪神大震災のあと動物保護施設でボランティアをしたことがきっかけで愛玩動物飼養管理士の資格を取得。1999年に市原市に移り住んだのも、ボランティア時に市原動物病院の獣医師と出会ったことがきっかけ。その他、ペーパークラフト作家、建築模型を作製するモデラー、ウェブデザイン、パソコンの講師なども手がける。
「上手に歌うことができるという才能を実感するとともに感謝しています。今後はCDを出したりユーチューブにアップしたりして、もっと多くの人に自分の歌を聴いてもらいたい」谷山さんは、ハワイで最も権威のあるフラ・コンペティション『メリーモナーク・フェスティバル』で何度もチャンピオンの座を勝ち取っているチンキー・ホマエ氏からも高評価を得ている。素敵な歌声に癒されたい方は各ライブに足を運んでみては。
市原市でのウクレレ教室は三和保健福祉センターで行っている。詳細とライブ情報はホームページ要チェック。
問合せ 谷山さん
TEL 090・8108・2040
ホームページ www.tany.me