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魂をみつめる画家『下川吉博展』 いすみ市郷土資料館【いすみ市】
- 2019/9/20
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額縁の中で、少女が膝を抱えて座っている。母が子を抱いている。林はどこまでも続き、月は海を照らす。孤独、不安、慈しみ、希望。静謐をたたえる絵画から鑑賞者はどんな言葉を受け取るだろう。田園の美術館(いすみ市郷土資料館)で、『下川吉博展』が10月14日(祝)まで開催されている。
深遠な心の世界を表現
下川吉博さん(73)は、長生郡睦沢町在住で、出身は福岡県田川市。小さい頃から絵を描くことが好きで、自宅で風景や静物画を描いていた。将来の夢として建築関係にあこがれ、開通当時は東洋一の吊橋だった北九州市の若戸大橋や、ダムのような大きな建造物に心惹かれたという。転機は高校3年の春休み、東京への修学旅行でのこと。上野の国立西洋美術館で多くの油彩画に魅了され、「こういうことをして一生を過ごせたら」と、絵画に対する気持ちが大きく膨らんだ。「絵を描くなんて九州男児のすることではない」という父親を説得、武蔵野美術大学で油彩画を学び、美術教師として埼玉、千葉県内の県立高校に勤めた。その間も画業に励み、4、50代の頃は毎年銀座と福岡で個展を開催、現在もギャラリーなどで作品を発表し続けている。
下川さんが敬愛する画家として名前を挙げるのは、麻生三郎。武蔵野美術大学名誉教授も務めた洋画家で、暗色の重厚な画面に根源的な人間像を描き出す画風で評価された。「終戦後、世の中に抗う絵を世に出し続けた麻生三郎の姿に、あんな生き方をしたいと感じていました。しかしある時から、自分はそういう体質ではない、自分の言葉を探しながら描いていこうと覚悟しました」と、下川さんは語る。20代の頃の作風は黒がベースで、将来に対する不安など外界へ抱く恐怖が根底にあったが、年を経て興味が人間の内面の探求へと移った。「若い頃は『絵はできるもの』だと思っていましたが、やがて『絵を作る』ことに意識が向きました。最近の作品では床や壁を取り払い、空間を主眼においていますが、ふつうはこういう構図はとりません」。
「上手に嘘をついた絵がいい絵だと思う」と下川さんは言う。「余計なものは描かない」という現在の作風も、そこに理由があるのだろう。定型の構図、一般の常識から離れて、目に見えないけれど確かにそこにあるものを表現した作品は、『自分は何者か』という正解のない問いに、「片言でも、うめきでも、自分の肉声が絵に出ればいい」と下川さん自身がもがき、作り上げてきたものだ。物にあふれた世界、慌ただしい毎日の中で、命を削って生きている1人1人が精神世界を持ち、光があてられた日常の顔の裏にそれぞれの『想い』を抱く。人は心の内では孤独であり、恐怖、寂しさと闘わなければならない。そこへさす光があるとすれば、それは人との共感だろう。人の心の奥底にある癒えることのない傷、あたたかい記憶、明日への希望。下川さんの作品は、その琴線にそっと触れる。『月明かりの海』を見たある女性は、「海沿いで育った私が、学校の帰りに見ていた風景とそっくりです」と記憶の中の風景と再会を果たしたという。
たゆまず、ひたすら
下川さんの個展開催には、いつも尽力してくれる知人の空覺三さん(ペンネーム)がいる。ふたりの交流は、数年前に空さんが下川さんの作品に出会い、感銘を受けたことで始まった。会場に展示されている作品のいくつかには、空さんの直筆で原稿用紙に書かれた文が添えられている。その文に導かれて、鑑賞者は例えば樹林の中をさまよう体験をする。静謐で色調を抑えた下川さんの描く世界を、空さんは「魂の世界、魂の領域」と表現する。
下川さんの作品には、『母と子』『想い』などの同じタイトルに制作年を示したものがいくつもあるが、その訳を尋ねると「ずぼらなだけですよ」と笑う。しかしその言葉とは裏腹に、積み重ねて得たものへの自信と、更なる高みを目指す志が笑顔の下に垣間見られる。「死ぬときにピークでいたい、そのためには現状維持では足りないんです。毎日とにかく描いています」魂の世界を表現する飽くなき探求心が、下川さんに日々絵筆を握らせている。
問合せ:田園の美術館 TEL.0470・86・3708
※入場無料(月)休館(祝日は開館、翌日休館)9時~16時30分