- Home
- 外房版, シティライフ掲載記事
- 私は生まれ変わってもきっと、また同じ人生を選ぶ
私は生まれ変わってもきっと、また同じ人生を選ぶ
- 2018/2/16
- 外房版, シティライフ掲載記事
画家 中上清さん
現代画家の中上清さん(68)がアトリエ兼自宅を横浜から夷隅郡大多喜町へ移したのは2017年5月のこと。いすみ鉄道久我原駅からほど近く、悠々たる自然の中にひっそりと佇むアトリエ。取材日の昨年12月上旬、「今月中旬からニューヨークで個展をやるから、メインのものはみんな送っちゃっているんだよ」と笑う中上さんだが、そこには120号の大きな画が2枚壁に飾られていた。黒地に塗られたキャンパスに光が差し込む。山の頂から覗く朝日か、雲の合間から光る稲妻か。真っ暗な宇宙の片隅で生じた物体の衝突かもしれない。描き続けてきた画の数は把握が困難なほど多いが、そのすべてが『無題』である。始まりや終わり、喜怒哀楽。物事の事象や感情を画から読み取ろうとしてしまうが、「描く時に感情は入れないようにしている。私の画を見て、誰かにこう感じて欲しいというのはない。思ったままでいい」そうで、彼の迷いのない視線と言葉はまさに潔い。
中上さんが現代美術の道を志したのは、高校を卒業してから。「子どもの頃の通知表を見たら、美術は全部5だったんですよ」と話す、妻の彩子さん。中学生の頃には、誰かに習うでもなく光の陰影や遠近法を描く技術を理解できたという。現代美術を志す仲間たちで集うグループBゼミに通った期間が半年ほどあるものの、独学で絵画の技術を研究してきた。
21歳で初めて雑誌に作品の写真が載った時が一番嬉しかったというが、それから作品を発表する場は多く恵まれた。銀座絵画館や首都圏でのいくつものギャラリー、東京国立近代美術館など。2009年には横浜文化賞(文化・芸術部門)を受賞した。「なんで描くのかと目的を聞かれることはよくありますが、意識はしていない。描きたいからかく、そして描いたら結果がこうなった、というだけ」。死ぬまで一点も売れないだろうと描き始めた現代画家だった。周囲の人間に進路を心配されたこともあった。だが、「苦労は全部忘れることにしているんだ。貧乏を楽しめないとできないよ!」と笑う中上さんは、自信に満ち溢れている。
決して自ら多くは語らない。語らずとも作品は国内に留まらず、ニューヨークやパリでの展示会で海外の人々の関心をも誘っている。「日本人は展示会で見ても感想をはっきりと言わない。でも、外国人は違う。どうやって描いた?どういう意味?質問がすごい。若い人も画を使った遊び心を持っていて面白いよ」と、ニューヨークの個展に向けて気持ちが高ぶる。
普段は、一日の大半を描いて過ごす。アトリエにのっそりと姿を見せた白ネコが、のんびりと部屋を散歩する。光の注ぐ庭で下塗りをする時もある。「ずっと横浜のアトリエにいたんだけど、街中でコンビニも近かった。ここは広いし、静かでいい」と中上さん。昨夏は近くのサマーハウスを借り、ニューヨークや県外の友人が大多喜を訪れて酒を酌み交わした。お酒を好む中上さんに、「千葉県は勝浦の日本酒が美味しいよね」と微笑む彩子さんは、「彼は研究熱心だから」と続けた。2人はジャンルを問わず美術館に出掛けては、よく感想を語り合う。
中上さんの画が人を引き付けるのも、作品が計算された色、位置、そして線で表現されているからだ。画家にならなければ物理学者になりたかったというほど、『研究』に余念のない姿勢が結果を残してきた。偶然できる色や技術もあるため、なぜそうなったのか取りこぼすことのないようデータは料理レシピのごとく残されている。
40年近く描き続きてきたが、まだお気に入りの1枚はない。「気にいるのができれば、そこで完結してしまう。まだ表現したいことは、描いているうちに自分の作品が教えてくれる。人の画を見て学んで進もうとすると、疲れちゃうよ。根拠のない自信は昔からあるんだ」と力強く話した中上さんは、最後に笑顔をみせた。光と影の表現されたキャンパスを見つめていると、果たして中上さんが強く描きたかったのはどちらなのだろうと思う。だが答えがないというのも、もしかしたら正解なのかもしれない。
問合せ 中上さん
TEL 080-3588-0417
tenkaitoga22@gmail.com