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- 【後継者という生き方】 新酒のワインは1年の成果を表したレポート 齊藤ぶどう園 齊藤雅子さん
山武郡横芝光町で戦前から自家製のぶどうでワインを作り続けてきた『齊藤ぶどう園』では、新たな後継者である齊藤雅子さんが日々奮闘しながら、独自の道を探している。同園が始まったのは1930年のこと。齊藤さんの曾祖父である泰次さんが松林を開墾し、果樹栽培に着手した。8年後に醸造免許を取得すると、戦時中は砂糖の配給を受けて酒を造り、副産物の酒石酸(しゅせきさん)を軍に提供。酒石酸は潜水艦の音波探知機となるため工業用品として役立っていたのだ。戦後は2代目で雅子さんの祖父、貞夫さんが園主を引き継ぎ、ぶどうや梨、すももの栽培に力を注ぎながら、自家や地域消費用のワイン製造を行ってきた。「畑はおよそ1ヘクタール。戦前から使っている木製プレス機で果実を絞る製法なので、工業化していません。原料にも輸入物や濃縮ジュースを取り入れない、本当に自家製のぶどうのみでワインを造るので、毎年4千本ほどのみの販売です」と、齊藤さん。近年は日本ワインがブームとなっている影響もあり、毎年11月第4土曜日に販売開始すると、またたく間に売り切れてしまうとか。
齊藤さんが、代々伝わる同園の後継者として生きる決意をしたのは今から数年前のこと。地元の山武郡を出て、都内の大学へ進学すると一人暮らしを開始。「経済学部で学び、ゆくゆくはキャリアウーマンとして東京で働くことを想定していました。大学時代は馬術部に朝から晩まで打ち込み、収穫の時期にだけ手伝いへ帰る感じ」だったとか。事態が変化したのは、大学院2年生の2013年頃。千葉県内で醸造をしているワイナリーとして、都内で開催されていたワインのシンポジウムやイベント販売に同園の広報として参加していた齊藤さん。そこで、山梨県にある醸造家と出会い、研修としてワイナリーを訪れた。ワインと食べる美味しい料理、実際に醸造家として生きる人の考え方などにも感銘を受けたとか。「それらの体験は、農業は儲からない、定年がないから辛いという私の偏った概念を大いに覆してくれました」と、笑う。農業に挑戦する環境は整っている。あとは、齊藤さんが飛びこむだけだった。
2015年から2年間は山梨県のワイナリーと実家の農園と半々の生活を送った。長野県で開催された座学の勉強会にも参加し集中的に学ぶこともあった。ヤマ・ソーヴィニオンやデラウェアなど数々の品種を栽培している齊藤ぶどう園。ワインだけでなく生食用のぶどうを出荷している経緯もあり、「2代目の祖父と意見が異なり、ぶつかることは何度もありました。きれいな房を作りたい祖父、ワイン用に糖度を求める私。ワインのアルコール度数の高さもそうです。栽培方法や技術について改良できる細かい部分を、認めて欲しかった。ただ、祖父がやってきた栽培法や生活の中の暮らしで素敵だなと思うこともたくさんあるので、それは私が守り続けたいです」と、強く決意する。必要以上の除草剤や化学肥料を使わず、放し飼いにした鶏やガチョウに下草を食べさせるという、優しい農業。鶏の産みたて卵、自宅近くの栗山川で採れた魚を食べ、味噌や梅干しも家族の自家製というライフスタイル。庭の木々に花が咲き、ぶどうが実る。横芝光町の斉藤ぶどう園には、そうして穏やかな時間が流れる。
ワインができるまで
毎年4月、ぶどうの芽が出てくると作業はスタート。5・6月には新しい枝が伸びてくるため、光が均一に当たって糖度が増すように芽欠きをする。そして、新しい枝の誘引や房の数の調整も行う。8月から10月にかけて収穫し、ワインの醸造に入る。ブドウの房ごと破砕して発酵させ醪(もろみ)を作り、さらに木製のプレス機にて搾る。ホースで地下のタンクに送るとさらに発酵させるのだ。「千葉の土地柄、酸味や渋みが穏やかなワインができます。果実味が強く、口あたりが柔らかいかろやかな赤ワイン」だと、齊藤さんは説明する。
天候によっては収穫量に影響がでるため、生育期になると気象庁の天気予報を見ることが日常になることも。それでも齊藤さんは、「ワインを家庭料理と一緒にぜひ楽しんで。樽やブドウの品種の数を増やし、スパークリングワインなども作って若い人にももっと親しんでもらうことが目標です。そして、お酒を通して新たな人に出会えることも嬉しい。そのうち、庭をもっと公園のように整えて、試飲して楽しめるようなスペースも造れたら」と、溢れる希望を口にした。なるべく人の手で作るという伝統を守りつつ、齊藤さんの新たな挑戦は続く。同園およびワインについて詳細はHPにて確認を。
http://www.saito-winery.com/