- Home
- 外房版, 市原版, シティライフ掲載記事
- 沖縄戦で自決した大田實海軍中将~長柄町で慰霊顕彰と生誕祭~【長柄町】
沖縄戦で自決した大田實海軍中将~長柄町で慰霊顕彰と生誕祭~【長柄町】
- 2023/3/23
- 外房版, 市原版, シティライフ掲載記事
- 外房
【写真】昨年の慰霊顕彰と生誕祭
4月1日(土)長柄町高山で、同町出身・大田實海軍中将(享年54歳)の慰霊顕彰と生誕祭が開催される(主催:大田實海軍中将顕彰会)。大田中将の生家前に建立された顕彰碑前にて、読経と焼香、鎮魂歌や唱歌、『アメージンググレース』の歌、シンセサイザー演奏などが行われる予定だ。
戦史に残る電文
大田中将は第2次世界大戦末期、日本国内唯一の地上戦となった沖縄戦にて知られる勇将。米軍の沖縄侵攻がせまる昭和20年1月、海軍での陸戦の第一人者として、旧海軍沖縄方面根拠地隊司令官として着任する。侵攻開始まで2カ月、沖縄本島各地の陣地で防衛準備を淡々と行い、3月からの侵攻では、那覇へと南下してくる米軍との激戦を指揮した。6月、米軍が那覇の南・海軍司令部のある小禄地区まで進出するのに伴い、本島最南端部の摩文仁(まぶに)に退く陸軍の撤退支援を行って、自身は小禄地区を1日でも長く守ることを決める。そして玉砕寸前の6月6日、大田中将の名を最も知らしめた訣別電文『沖縄県民斯ク戦ヘリ』が司令部から海軍次官へと送られるのだ。
通常の訣別電文は『天皇陛下万歳』『皇国ノ弥栄ヲ祈ル』などが常套句だが、大田中将はまったく使わず、沖縄県民の苦闘を600字にもなる長文で様々に伝え、最後に『一木一草焦土ト化セン 糧食六月一杯ヲ支フルノミナリト謂フ 沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』と、戦闘に巻き込まれた沖縄を案じ訴えた。
その後も中将率いる海軍陸戦部隊は、司令部地下壕から抵抗を続けた。12日になって司令部壕の上の丘は米軍に占拠され、13日午前1時、司令部は中将以下、幕僚6名が自決し、沖縄での海軍の組織戦は幕を引いた。
今も慕われる中将の遺徳
毎年、慰霊顕彰と生誕祭を主催する『大田實海軍中将顕彰会』代表、相馬康夫さんは、大田中将と同郷の長柄町出身。子どものころから父親に中将の話を聞いていたという。「どういう方なのかもっと知りたくて、沖縄まで出かけて県民の方に聞いたり、中将が陸軍の撤退支援をした『摩文仁の丘』の資料館などで話を聞いたりしてきました。そこで多くの沖縄県民の方が、大田中将は沖縄にとって別格な人だ、と仰ってくれたんです」
中将の最期に打った電文は、戦後の沖縄県民の心を慰め、沖縄の本土復帰に政治家を動かす原動力にもなったと言われる。「中将は沖縄を守ってくれた、と沖縄の皆さんに言われました。この顕彰碑のそばで毎年咲くヒカンザクラは、沖縄から贈られたもの。郷土の誇りである大田中将を多くの方に知ってもらいたくて、今、中将のドキュメント映画の製作でも活動しています」と相馬さん。映画はヒカンザクラの枝を接木にし、相馬さんが沖縄の海軍壕に赴いて植樹することと、中将の事跡を追う内容。海軍壕の管理者とも交渉ができ、植樹用の接木の準備も始まっている。そのために相馬さんは、地元の方に費用を用意したのだが、「中将のことならお金はいらない」と断られ、「正直な映画を作ってくれ」と激励もされたという。
「一昨年12月に逝去されたノンフィクション作家の田村洋三さんの著書『沖縄県民かく戦えり・中将一家の昭和史』も、発行当時、沖縄では爆発的に売れたそうです。中将は沖縄で今も慕われています。今後も中将を知っていただくために活動を続けます」と相馬さん。4月1日(土)の『大田實海軍中将慰霊顕彰と生誕祭』は10時から、長柄町高山686番地にて開催。午後は希望者参加で、当日発表の別企画もあり。詳細は相馬さんまで。
問合せ:相馬さん
Tel.090・7009・3314