足るを知る

遠山あき

 もうだいぶ前のことになるが、私は越後国、出雲崎、国上山の中腹あたりにあるという旧い荒れた小庵を訪れたいと、長いこと思い続けていた。ようやくその願いが叶い、国上山を訪れることができた。しかし、四月の初め、未だ越後国上山は冬の名残りが濃かった。
 荒れた杉の林には残雪がまだらに残って、吹き下ろす山の風は肌を刺すように冷たかった。ようやく辿りついた、うらぶれた風情の小さな堂宇は淋しく小さく、もう誰の姿もなくひっそりと佇んでいた。誰もいないことで更に強く心惹かれて、誘われるように歩み寄って、朽ちかけた濡れ縁に腰を下ろした。長いことどうしても訪ねたいところだった。
「そうだ! これこそ、長いこと訪れたかった『良寛和尚』が晩年に住んだ庵だ。確か『五合庵』と言った」。長く其処を訪れたいと思い続けていたのであるが、ようやく出会えた。人間ではないが、逢いたい思いは深かった。
 そのうらぶれた草庵は、自分の寺を持たない修業中の僧が、雨露をしのぐために托鉢のあと一夜の宿りを借りる草庵だ。此処を宿りと定めたのは、良寛、四十七歳(一八〇四年)のことであった。四月とはいえ、未だ残雪の見える国上山の夕風は冷たい。藁筵を敷いただけのこの庵で厳寒の真冬も過ごしたという良寛は、さぞ寒さに震えたこともあったろう。しかし、彼は小さな囲炉裏に拾い集めた枯れ枝を燃やし、托鉢の米で粥を煮て空腹と寒さをしのいだのだ。
 よく良寛は言ったという。托鉢の量は一夜過ごせるだけがあればよい。それより多く施しを貰えば、農民はその日、腹を満たすに足らなくなるだろう。五合あればわしは明日も足りる。五合の施しをうければ、彼は托鉢を止めて子供らと夕方まで遊びほうけたという。
 麓の村の農家の年寄が、「和尚様、囲炉裏に燃やす薪は? 集めて差し上げましょう」と言うと、カラカラと笑って、「ハハハ、炊くほどは風は持てくる落ち葉かな、じゃよ」。
 まこと、杉林の中の五合庵のまわりは、絶えず吹き下ろす山風で杉枝が重なっている。乾いている枝に火打石を打てば、すぐにボーと燃え上がる。小さな庵はボッと明るくなり暖かい光りがともる。手をかざして粥の煮えるのを待つ。恵みの梅干し一個あれば粥は良寛の胃袋を満たしてあまりある。
容赦ない寒風は一夜中庵を揺するが、残った囲炉裏の燃え残りは灰へとっぷりと埋める。ほっかりとした灰の上に足をかざせば、ほのぼのとぬくい。
「足らざるはなし」
 良寛は呟く。
「この上になにが要るであろうか」

 けれど今は。あり余っても、まだ足りない。もっと!もっと! 欲にはきりが無い。
「要らなきゃ捨てればいい」「ついでに邪魔っけで、目障りなものも捨てろ、ほっぽり出せばいい」
「ウーン、そうかなあ、それでいいのかなあ」
 新しい年は明るくあってほしい。正しくしてほしい。願わずにはいられない。

☆大正6年(1917)、大多喜町生まれ。昭和11年、千葉県立女子師範学校卒、教員となる。昭和14年、結婚、千葉市に住む。昭和19年、戦災のため夫の郷里の市原へ。その後、農業に従事。昭和42年、農民文学会に入会、執筆活動に入る。小説『鶯谷』で農民文学賞受賞。平成6年、保護司の活動の実績が認められ藍綬褒章受賞。文学同人『槇の会』主宰。

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